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歴史の中で跳んだり跳ねたりする
歴史を探求する人の多く(特に学者さん)は証拠至上主義である。中には証拠がないことは一切認めない堅物の御仁もおられる。
もちろん生業だから無責任な発言や発表はできないのは至極当然のことである。
しかしながら個人の楽しみの範囲として、ロマンを追い求める素人の歴史研究家にとっては証拠も大事だが、その証拠を踏み台に、さらに上方の空想の世界で跳んだり跳ねたりすることが至福の遊戯である。私は四角四面の、刺々しい世の中にあって、自由に思うがままに想像できる自分だけの世界があっても良いと思い、時間があれば史跡を求めて野山に出かけている。
民衆の苦しみを見かねて立ちあがった男大塩平八郎
大塩平八郎の乱は天保八年(一八三七)二月十九日朝五時、まずは天満にあった自宅に火をつけることから始まった。
暴動の原因は突き詰めて言えば飢饉であった。民が飢えに苦しんでいるのに、官吏や富豪が奢侈をほしいままにしている。陽明学者であり、哲学者でもあった大塩平八郎はそれをけしからん!と激怒したのであった。
陽明学とは中国は明の王陽明がひらいた儒学の一派で、知識と行動の一致を説き、特に実践を重んじることを旨とした。
大塩はおよそ百余人ほどの門下生と、二百人ほどの賛同者たちを率い、同心町に放火をした。天満宮を南下、難波橋を渡って、堺筋から今橋、高麗橋付近を焼き討ちし、平野橋を焼いた。その間、三井や鴻池屋善右衛門、鴻池屋庄兵衛、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛等の土倉に大砲を撃ち込んだ。大塩にしてみれば、富豪を懲らしめ、窮民を賑わそうと檄文をばらまいたが、いたずらに烏合の衆を集めるだけに終わり、企てはわずか半日で鎮圧されてしまい、失敗した。
文豪森鴎外 小説「大塩平八郎」
文豪森鴎外は大正三年に小説”大塩平八郎”を書き上げ、中央公論に発表している。
鴎外は「知人から「大阪大塩平八郎万記録」と言う写本を借りたことから、興味を持った」と後記に告白している。
人に会う度に平八郎という人物についてのことを聞いているうちに、「こんな事をしている間、私の頭の中をやや久しく大塩平八郎という人が占領していた」とある。 とうとうある講演で二時間も大塩平八郎と題した話をするようにまでなった。それならと、鴎外は書く気になったという。
小説”大塩平八郎”森鴎外作
***十一、二月十九日後の一、志貴越***
・・・二月十九日の夜、平野郷のとある森陰に体を寄せ合って寒さを凌いでいる四人があった。これは夜の明け切らぬ間に河内へ越そうとして、身も心も疲れ果て、もはや一歩も進むことが出来なくなった平八郎親子と瀬田、渡辺とである。
四人は翌二十日に河内の界に入って、食を求める外には人家に立ち寄らぬように心掛け、平野川に沿うて、間道を東へ急いだ。さて途中どこで夜を明かそうかと思っているうち、夜中から大風雨になった。
ようやく産土(うぶすな)の社を見つけて駈け込んでいると、しばらく物を案じていた渡辺が、突然もうこの先は歩けそうにないから、先生の手足纏にならないようにすると言って、手早く脇差を抜いて腹に突き立てた。左の脇腹に三寸余り切先が入ったので、所詮助からぬと見極めて、平八郎が介錯した。渡辺は色の白い、少し歯の出た、温厚篤実な男で、年齢はわずかに四十を越したばかりであった。
二十一日の暁になっても、大風雨は止みそうな気配もない。平八郎父子と瀬田とは、渡辺の死骸を跡に残して、産土の社を出た。土地の百姓が死骸を見い出して訴えたのは、二十二日のことであった。社のあったところは河内国志紀郡田井中村である。
三人は風雨を冒して、間道を東北の方向に進んだ。風雨はようやく午頃に止んだが、肌まで濡れ通って、寒さは身に染みる。辛うじて大和川の支流幾つかを渡って、夜に入って高安郡恩地村に着いた。
・・・筑摩書房森鴎外集2より引用
志紀村誌
昭和30年に発行された「志紀村誌」には、渡辺良左衛門の自刃切腹した跡が五条宮祉にある、と書かれてあるが、跡とは何をもってこれを指すのか? 語り継がれで、石碑の一本でも建てたということか。ちなみに現在、その跡というのは何もない。
弓削村から乱に参加した西村七右衛門
騒乱による放火によって大坂の町は天満、船場、上町の一部を焼くことになった。
当時の大坂三郷の五分の一である、三千五六百ほどの家が火に包まれ、かまど数では一万五千人以上にのぼったといわれている。翌日の夕方まで火は燃えくすぶっていた。
実は弓削村からこの乱に参加していた農民がいた。西村利三郎(七右衛門)である。弓削村の田畑の五分の一を所有する富農であった。
彼は子供の頃より平八郎の塾「洗心洞」で学ぶ門下生で、西村が二十五歳の時、乱が起こった。西村は天満にいましたが、乱の知らせを聞き、西村に心酔していた利助をはじめとした弓削村の百姓16人が、弓削村から玉造あたりまで駆けつけたという記録が残っている。心情的に心打つものがあったのだ。
乱後、西村は逃げのび、その年の五月江戸で病死している。利助をはじめ、十六人はきびしい取り調べを受け、村預かりとなりますが、後に四人は死亡・行方不明になっている。
その後、この”大塩平八郎の乱”に刺激され、全国各地で暴動反乱が起こり、幕府も力では怒れる百姓民衆を抑えきれなくなり、水野忠邦をもって天保の改革に乗り出さすことになった。
渡辺良左衛門が田井中神剣神社で自害
大塩平八郎の腹心、渡辺良左衛門が牛頭天王社(田井中神剣神社)で自害したとも五条宮祉で自害したともいわれているが真相は定かではない。
事件の夜、奉行所は四人の人相手配書を作成、直ちに在郷各地へ配布したとある。(大塩平八郎の乱についての考察より引用)
あらかじめ逃走に関しての相談があったものと思われる。にこぶ川沿いは街道ではないから人気が少ない。川に沿って歩けば闇夜であっても弓削村へ行き着く。だから道に迷う心配がない。それに川には土手があって葦なども生えているから身を隠すのにも都合がよい。
森鴎外の小説では20日の夜半に社で自害した渡辺を、22日になってから田井中の百姓が届け出たとある。この事件は現職の与力が多数参与したという大坂町奉行の恥と威信に関わる大事件であったから、それだけに追及の手は厳しく、20日の朝には奉行所からの命令で首謀者大塩父子たちの行方を追跡するため、在郷の捕り者達が志紀あたりを探索していたはずである。
弓削村にある西村の家はすでに役人たちが様子を伺っていたから、(前書より)弓削には入村出来ない。西村の家でほとぼりが冷めるまで、身を潜めるつもりが、そうもいかなくなった。逃走を手引きする弓削村の農民たちが大塩たちを、田井中あたりの川岸で待ち伏せ、出迎えたということも考えられないか。
大塩平八郎の乱は幕府に対する反逆敵対行為である。首謀者はもちろん乱に参加した者も罪人となる。
新聞も何もない時代だから、事件を知らない村人が脇差しにおそれをなして、食べ物でも与えたということも考えられる。
逃走のこの四人は(大塩は元ですが)、は東町奉行の与力や同心職であった。与力は配下に今の警察業務を主とするたくさんの同心を抱えていた。与力とは何をする仕事かと簡単に言えば、地方行政官でもあるし、警察幹部でもあるし、盗人やもめ事などを裁く簡易裁判官でもあった。
今もそうだが、法律や公安を握っている人の脅しには別の意味での凄みがある。彼らは強迫めいた言葉を巧みに使いわけることが出来る。都会とは違い、田舎の善良な百姓たちだ。与力たちがその名を名乗るだけで、震え上がったに違いない。
手引きの者が田井中村にいる親戚縁者に頼み込み、村人も渋々ながらも大塩たちをかくまう。ところが足に傷を負っていた渡辺が思わぬことに自害をした。死体をどこかへ処分しなければならない。ごそごそしているうちに村人に見つかった。五人組制度で罪も連帯であるから、見つけた村人も驚いたに違いない。
朝、平野川(にこぶ川)を遡上する柏原船の船頭や人足にでも事件の詳細を聞きつけ、更に慌てふためいたと考えられる。幕府公儀に刃向かう罪人を幇助したとあらば即刻、打ち首である。
おとがめを畏れた田井中の庄屋や年寄、百姓代が協議し、村人に箝口令を敷いて、遺体を村から遠く離れた五条宮に運んだということも考えられる。なにしろ社会を騒乱させた大事件の首謀者たちだ。充分考えられることだ。身に降り懸かるのを恐れ、真相が闇の中に消えるという、庶民の弱み故の、事件が迷宮入りする時などと同じパターンである。
届けを受けた番所は真っ先に大坂の奉行所に通報し、検死のために色めき立った奉行所の捜索隊が大挙して田井中にやって来たことだろう。自害現場を克明に記録した調書なども当然残っていると思われる。
鴎外は自害の場所を産土の社としか書いていない。産土の社とは土地の者が宮参りをする社のことを指すのは判った。
田井中の二社の境内にある狛犬を調べてみると、どちらも平八郎が立ち寄った年代よりも古いことがわかる。
鴎外のことだからそのあたりの資料調査は抜かりはないはずだと思われる。というのも鴎外は陸軍の軍医であり、しかも高級軍人である。当然資料なども収集しやすい立場にあったはず。産土の社と書いたところにこの謎を解く鍵があるように思われる。当時、村の北東にあった牛頭天王社、今の神剣神社と比定するのが妥当なのではないか。いずれにしろ自害の現場は狛犬が知っているはずである。
伝説や言い伝えほどいい加減なものはない。たとえば弁慶が座ったとされる石や弘法大師が立ち寄ったとされる寺院の話など、どこにでも捨てるほどある。弁明ではないが、少なくともこの四人が田井中の神社で雨宿りをしたという話は、極めて信憑性が高いと思われる。”義賊、渡辺良左衛門終焉の地”は田井中神剣神社であった。
森鴎外後記
平野郷からの足跡を調べた鴎外がどうにも悩んだのが志貴越えをした峠であった。鴎外はその事を後記に弁解がましく白状している。田井中の文字が何度か出てくるので、続けて書き写してみることにする。
・・・二月十九日中のことを書くに、十九日前のことを回顧する必要があるように、十九日後のことも多少書き足さなくてはならない。それは平八郎の末路を明らかにしておきたいからである。
平八郎は十九日の夜大坂下寺町を彷徨していた。それから二十四日の夕方同所油懸町の美吉屋に来て潜伏するまでの道行は不確かである。
しかし下寺町で平八郎と一緒に彷徨していた渡辺良左衛門は河内国志紀郡田井中村で切腹しており、瀬田済之助は同国高安郡恩地村にて縊死しており、二人の死骸は二十二日に発見せられた。
そこで大坂下寺町、河内田井中村、同恩地村の三ヶ所を貫いて線を引いてみると、大坂から河内国を横断して大和国に入る道筋になる。
平八郎が二十日の朝から二十四日の暮れまでの間に、大坂、田井中、恩地の間を往反したことは、ほとんど疑いがない。
また下寺町から田井中へ出るには、平野郷口から出たことも、また推定することが出来る。ただ恩地から先をどの方向にどれだけ歩いたかが不明である。 試みに大坂、田井中、恩地の線を、甚だしい方向の変換と行程の延長とを避けて、大和境に引いてみると、亀瀬峠は南に偏し、十三峠は北に偏していて、恩地と相隣している服部川の志貴越えをするのが順路だと言いたくなる。
こういう理由で、私は平八郎父子に志貴越えをさせた。そして美吉屋を叙する前に、志貴越えの一段を挿入した。 筑摩書房森鴎外集2より引用
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