平成24年5月22日更新

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八尾市志紀地区田井中の歴史

神剣神社の由来(副題:天皇と田植え

戦後、大阪の衛星都市として住宅開発が為された八尾市田井中、現在は町の中心付近に位置している田井中神剣神社であるが、戦前までは村の北東に位置していた。つまり表鬼門に位置していた。

神剣神社の歴史を記述するわけであるが、その前に天皇は何故毎年田植えをされるのか、そのことから始めたい。

天皇という言葉から連想されるのは何といっても象徴で、少し前なら現人神、古くは王権ではないか。その天皇が新たに即位するときに執り行われる大嘗祭という儀式があるが、何をするのかといえば、降臨した稲の神と対座し、稲の霊力を身につける儀式である。何故そんなことをするのかというと天皇こそは稲霊を司る唯一の存在だからで、だから稲霊を身につけるということは天皇であるという証明でもあるからだ。

広義に収穫を得るためには崇める存在からの恵みを受けなければならない。これは信仰の大原点である。これなくして信仰はない。

長い間、日本の社会は稲の中心にまわってきたことは暦などを見ればすぐに判る。田植え、半夏生、八朔、新嘗祭など、暦を子細に見ると稲にまつわる行事や記事で一杯だ。

古代より人の集まるところには必ず人々によって、五穀豊穣、無病息災などを願う、モノについた精霊を崇拝する風習があった。精霊崇拝つまりはアニミズムと呼ばれるものである。崇めるモノはその土地によって様々で、祠のようなものを作り、神聖なモノとして崇め、手に負えない天災異変などがあれば、祭祀を司る人(シャーマン)をたて、お祓いに似たようなものを授かっていただろうと思われる。

五条宮(田井中交番南西の椀を伏せたような雑木林)にあった五条神社(牛頭天王社)は神剣神社のルーツである。これは間違いない。村の移転の際、古くから信仰していた神を捨て、新たに作るというのは家具家財ではないのだからあり得ない。本来、畏怖し、あがめる存在である神の怒りや祟りを恐れ、異教徒にでもならない限り、捨てることなど考えられないことである。

奈良時代、五条宮祉には老原の家原寺や龍華の龍華寺のような大寺院が建っていた。さぞかし大陸文化の影響をたくさん受けた寺院であったろう。その境内の一隅に里人の産土神として奉られていたのが牛頭天王社であった。洪水で流されたのか、戦火で焼け落ちたのかは判らないが、寺院の方はいつしか僧もいなくなって荒廃し、牛頭天王社だけが残ったものと思われる。

五条宮祉周辺の小字名を調べてみると、宮後、五条垣内、北垣内、門田、大門、段の下などと呼ばれていた土地が1000坪以上あるという興味深いことが判った。五条宮の規模を推し量る大事な資料である。明治時代の発掘調査では奈良時代の古瓦が多数、出土され、出土した瓦は今でも監督官庁で保管されている。

いずれにしろ五条宮祉周辺は室町時代、八尾城をめぐる攻防の戦渦に巻きこまれ、現在の田井中に移転するまで永らく暮らしていた場所である。

明治の晩年頃までの五条宮祉には、周径180mに及ぶ銀杏の大木や老松、さらには熊笹が一面に繁る中に祠があったそうだが、大正の初め頃から次第に開墾され、今ではすっかり農地になってしまい、わずか2、3本の痩せた木があるだけである。

祠もいつの間にか崩れ落ちてなくなり、大きな石だけが後に残り、車窓から目を凝らして見ると、羽根を休めるスズメの住処になっているのがわかる。そのスズメの、我関せず、といった様子になぜか口元がほころぶのは筆者だけの他愛ない感傷事であろうか。

1337〜1400年頃、戦禍と水害から身を守るため、村人の大半は南の高田(小字名)に移り住んだ。自らの意思で逃げたのか、南朝方に村を占拠されたあげく、追い出されたのかは不明だ。

とにかく村人が去り、焼け落ちた集落の後には南朝方の大軍が駐留するところとなった。堤防に沿って広範囲に砦が築かれ、里人は五条神社にも近寄れなくなった。仕方なく村人は新たに社を作り、牛頭天王を奉った。やがて長かった戦乱に終止符が打たれ、村人は五条宮祉に祠を作り、社とは別にねんごろに奉ることになった。

村の鎮守の役目とする神社は本来、村の北はずれにあって南か東向きに建っているのが普通である。神剣神社の位置(小字名は堂垣内)も往時の村の位置関係から考えればまさに北のはずれに位置し、神殿は南向きであった。これは村の表鬼門にもあたる。

もともと村の神は村だけを守る神で、神が守ってくれる範囲はそう広くなく、村を離れるとその力が極端に衰えるとされた。だから村々には必ず村人を守る神が昔からあって、それを奉る社があった。村と村との境界は怖ろしい邪悪な者が棲む世界とされ、道祖神や賽の神や地蔵尊などを立て、しめ縄などを張り、悪霊を遮る工夫をした。村社会が特に排他的であったのは、外から来た者が邪悪な霊や災いを持ち込むことを嫌ってのことであった。

江戸時代の田井中村明細帳に牛頭天王社の名がみえる。牛頭(ごず)天王はインドの神である。牛頭を奉る祇園精舎は舎衛城の南にあった僧坊で、給孤独と称される須達(しゅだつ)長者が釈迦のために祇陀太子の庭園に建立した寺院であった。

そこで奉られていたのが牛頭天王で、もともとは祇園精舎の守護神とも、薬師如来の化身ともいわれ、明治になって須佐之男命スサノオノミコトと習合されて(異なる二つの宗教を混ぜ合わせ)、尊崇されることとなった。京都の祇園神社(八坂神社)で奉られている須佐之男命スサノオノミコトも牛頭天王が習合されたものである。

神剣神社の歴史的側面からの考察

欽明天皇の御代、百済聖明王から仏教と経巻の貢献(552)にはじまったわが国の仏教思想の普及は、推古天皇時代には仏寺の建立、絵巻の書写が流行を極め、発展期に入る。

次いで天平時代には政教一致とさえ言われ、仏教が国家の基本思想とされ、国々には国分寺に国分尼寺が建立され、仏教文化の黄金時代を迎えた。

他方において、わが国には古代より神道が存在し、これがわが国民性の基本を形成してきたが、その後、藤原時代(694〜783)に入ってこの神道と仏教の融和・調和が神仏同体説となってあらわれ、明治時代までわが国の思想の中枢をなしてきた。

それが明治になって天皇を政治の中心に据え、神道を国家統治の不倒の柱とする考えが生まれ、明治元年(1868)、神仏分離令を出し、神を国家宗教と位置づけることになり、同時に廃仏毀釈の運動が全国で盛んになった。

こうした動きは早速、神社の社格決定と整理統合にもあらわれることとなった。

天皇は現人神であり、天皇は自らを朕という言葉でよび、(この呼び方は秦の始皇帝にはじまります)朕の治める民は朕が支持する神を奉るのが当然だという考え方が支配的になり、やがて牛頭天王は須佐之男命スサノオノミコトに習合され、新たに保食神ウケモチガミが加えられた。

明治5年5月(1872)、社名も神剣神社と改称され、各村一社の官制神社として新たな発足となった。官制に伴い、それまで境内にあった天神社は宮座の私有物であるという理由で境内から排除してはとの声があがり、宮座を構成する堀内一統が自らの土地(現在地)に社殿を移転することになった。

ここに名実ともに、日出づる国の神を奉る神社となった。同時に廃仏毀釈の運動が起こり、無住職の寺は命令により取り壊すべし、との命が出、光明寺が廃寺となったのもこの頃のことである。

明治政府はその後、明治40年(1905年)に全国の神社の大整理をおこなうことになり、村社の多くは合祠整理されることになった。多数の神社の維持が財政的にも困難になってきたという事情もあった。

財政基盤の軟弱な神社や延喜式にない神社の統廃合が唱えられ、当社も誉田八幡宮と合併、合祠されることとなった。

志紀地区では弓削神社のみが延喜式に登録された式内神社で、それ以外の老原や天王寺屋などの神社もそれぞれ近隣の大社に合併させられることとなった。

その時の合祠通達に「境内地202坪は無償譲与、本殿、拝殿等は売却」とある。こうして国は財政の軽減をはかったのだろう。以来、神剣神社は官から民間の手に戻り、その後の村人たちの助力により、大正14年10月、還御正遷宮が執り行われ、社に奉安された。

昭和27年には当時の宮司西澤善一氏により宗教法人として神社庁に登録され、同時に官有地であった神域も無償で払い下げを受けた。その後、八尾市立志紀小学校防音改築工事に伴い、昭和47年(1967)、市当局の要請により当社の神域を南北54m、東西19mから南北19m、東西54mに変更することになり、これを機に市負担にて境内を高く盛土し、南向き神殿、拝殿を西向きに移転修復し、併せて鳥居、玉垣、社務所等の施設を新築整備した。

ご神体に関する簡単な説明と社名の由来

ご神体は須佐之男命スサノオノミコトと保食神ウケモチガミの二神体である。

須佐之男命については説明もいらないかと思われますが、戦後の教育は神については、意図的、意識的に全く教えていませんので簡単に説明しておきたいと思います。

須佐之男命は伊弉諾尊イザナギノミコト、伊弉冉尊イザナミノミコトの間に出来た子で天の岩戸で有名な天照大神の弟である。高天原で乱暴を働き、出雲へ追放されてしまう。そこで天の叢雲アマノムラクモの剣を得、八岐大蛇を退治することになった。奇稲田姫を妃に持つ、気性の荒い神である。

天の叢雲はその後、天照大神に献上され、のちに三種の神器にの一つとして皇位継承者に授けられた。日本武尊の故事から草薙クサナギの剣とも呼ばれている。

神剣神社の神剣という名称はご神体とする須佐之男命の天の叢雲に由来する。

神剣神社の文化的側面

境内には3対6基の石灯篭と1対2基の狛犬が配されている。いづれも年代を偲ばせる御影石造りである。

神域の1対の常夜灯には「文久2戌年9月」の刻筆が見られる。今から130年余り前(1862)、江戸時代末期の作である。

拝殿前左右に鎮座する狛犬の台座に刻まれた年号は「享和3年8月」で200年近く昔、江戸時代後期の作である。又、神社にある絵馬についてであるが、文化年間から大正時代に奉納されたもので、その数16点を数える。経年のため、相応の損傷が見られるが、奉納年次の判るもので最も古いものは文化14年とある。力強い絵筆のタッチで、筋肉隆々、腕に力瘤を盛った双方の力士が土俵の上で取っ組み合いをしている勇壮な絵で、その両端、土俵際には町人達が腕まくりで勝負に見入っている絵馬である。180年前、江戸時代後期の奉納である。

神社への絵馬の奉納は室町時代からあり、江戸時代になると、色彩豊かな絵柄に様々な画題がもられたという。年代不詳の絵馬もその絵題からして江戸時代の作ではないかと思われる。いずれにしろ八尾市で現存する絵馬は数少なく、末永く保存に務めたい貴重な財産である。

歓呼の声に送られて・・・

出征する田井中の若者は村を出て行く時、必ず神剣神社に詣で、武運長久と無事を祈願した。その後、仲間や親兄弟に送られ、3町橋から国道と田井中からの道が交差する「あがりたて」を勇ましく越えて行った。

そうした歓呼の声に送られて、たくさんの若者が国鉄八尾駅から出征していったが、その内29名が永遠に帰らぬ人となり、英霊となって、平成の現在も田井中墓地で安らかに眠っている。

神剣神社の祭事

祭事には年中定例の祭礼と宮参、地鎮祭、上棟式など氏子発願の祭事がある。

年末には御守護の神剣神社お札とお守りを全氏子に下授し、家内の安泰と息災を祈願している。

年中定例祭礼

行事名 月 日
 歳旦祭  1月 1日
 祈年祭 2月11日
 夏 祭  7月の最終土・日曜日
 秋 祭  10月8日
 新穀感謝祭  11月23日

現在の運営は、2年に1度、氏子より選挙によって推挙された神社委員が中心になって神剣神社委員会を組織、氏子を束ね、季節の祀りごとを執りおこなっている。

なお、神社の維持と財産の管理は上記、田井中神剣神社委員会がこれに当たっている。

現存する神殿

碑文にある神剣神社の建築時期であるが、鬼瓦に元文元年(1736)とある。元文年間といえば八代将軍吉宗の享保の改革が行われたすぐ後で、幕府の財政もかなり悪化し始めていた頃で、寺社奉行の管轄下にある格式の高い式内神社は別格として、村々の鎮守の神や氏神などの社、石塔の普請や新たな建立は五人組規約等によって堅く禁じられていた。そんな時期に建てられたとは考えにくい。多分、修理した際に取り替えられた瓦であろう。

現在の拝殿、本殿は大正14年9月下旬、還正遷宮の時に新築されたものであるが、費用等については記録がない。ただその前年に森口留吉氏より村に一万円(現在の価値で3億円ほど)の寄付があったことが村の会計簿に記されている。だからその寄付金で建て替えられたのではないかと推測されるが詳しいことはわからない。当時の施行業者は下記の通りである。

総請負は田井中出身の森口留吉氏で、氏は本業の大工の他、大阪築港で大潮湯を経営するかたわら、阿倍野で富士屋食堂を経営するなど多角経営で成功をなされた御仁である。

主な大工は建設会社大留本社の二宮龍蔵・二宮米吉・山口七蔵・森口平太郎。銅板工は松田喜三、下請負には弓削の中澤平三郎、左官は八尾木の岡田嘉三郎、石工は成法寺の森田弥三郎となっている。

延喜式の豆知識

平安中期、八世紀の終わりに完成した律令についての集大成である。全五十巻あって律令の施行細則が書かれてある。まずは神道に始まり、倫理、風俗、法制、経済、博物、地理、言語、文学、医薬、工芸器具と、今の総合大学の各学部が研究しているようなことを、それことこと細かに本に書き写したような代物だ。とにかく難解を極め、その膨大な量と考証の至難さで、今の、古代史中心の考古学会でも敬遠されている書物である

田井中といくさ

南北朝時代の戦いの他にも、この河内平野や田井郷中を駆けめぐっての歴史的にも有名な戦いが何度かあった。古くは物部氏と蘇我氏・聖徳太子の戦いがあり、南北朝の内戦、信長と石山本願寺との確執における安傳寺釈浄の活躍などである。ただ南北朝の内戦については、村の移動のところで詳しく書くつもりでいるのでこでは省くことにする。

田井中と物部氏

6世紀頃、河内の豪族であった物部氏は柏原から田井郷、渋川にかけての広大な領地を所有していた。ついには大和にまでその勢力を広げ、中央政権に参与するまでになっていた。当時の政権の片方の雄は蘇我氏であり、娘を欽明天皇に嫁がせて姻戚関係になったことで、勢いでは物部氏を凌駕(りょうが)するまでになった。両氏は政権を争って反目した。そこへ仏教の伝来があり、取り扱いをめぐっても食い違いがあって、溝は深まるばかりであった。

仏法を広めていこうとする蘇我氏の思惑に反目して、物部氏はことあるごとに妨害行為に出る。疫病が流行ると、蘇我氏が南河内に建立した仏教寺院のせいにして、焼き討ちをしたり、広布阻止のため、あらゆる陰謀謀反などを企んだ。

欽明天皇の后は蘇我氏の娘でその間に出来た子が用明天皇として即位すると、蘇我氏は一層の力を持つようになった。仏法を河内にも広めようとした聖徳太子は物部守屋、中臣勝海らの反対にあい、戦となった。守屋軍は木之本に数万の兵を集め、稲城を築き、3度に及んだ太子軍の攻撃を打ち破る。当時、太子はまだ弱冠16歳であった。木之本の城を攻めるわけであるから、記録には残っていないが近隣の田井郷は聖徳太子の兵士たちであふれていたはずだ。

用明天皇の死後、崇峻天皇の588年、蘇我馬子は永年の仇敵、物部守屋を討たんと挙兵。馬子の軍は竹ノ内街道から河内に入り、石川沿いから大和川沿いに散らばって反抗する物部軍を撃破しながら、守屋のいる植松、渋河を目指して進軍。守屋軍も必死に防戦につとめた。弓削や田井郷の支配者であった物部一族も当然の如く、馬子軍と剣を交えたことであろう。田井郷は軍隊の通過するところとなり、戦火に巻き込まれることになった。 追いつめられた物部守屋はついに馬子軍に蹴散らされ、その敗戦を最後に物部一族は歴史から消えることになる。

聖徳太子はその年の10月、四天王寺を建て、戦で木に隠れて九死に一生を得たという合戦の地に草堂を建てた。古市にある「上の太子」と対比させて「下の太子」と呼ぶ太子堂勝軍寺がそれである。明治二年に堺県知事、小川一敏が建てた物部守屋の墓が今も残っているが、勝軍寺と同じ沿道に、(市民病院前の国道二十五号線を挟んで向かい側)怨敵の寺院があるというのは何とも皮肉といえば皮肉だ。

信長の河内攻め

室町幕府が滅んだ天正元年(1973年)に安傳寺の本堂が出来た。将軍足利義昭は信長に京を追い払われ、河内若江城に身を預ける。その1年後の1574年、本願寺の顕如が信長に対して挙兵。戦いは全国から三万人もの一向宗徒を集め、中国萩の毛利家などの支援を受け、河内の一向宗徒たちも参戦するという長い戦となった。

天正3年には信長の軍は駒が谷に陣を敷き、高屋城を攻める。この時点では河内のほとんどの戦国武将や土豪を打ち破り、その城塞をことごとく打ち破った。久宝寺をはじめ、田井郷周辺なども信長によって鎮圧されていて、信長の支配下となっていた。安傳寺の釈浄が密かに石山方に通じて戦ったのはこのころである。

天正4年8月には久宝寺の土豪、安井定重・定正の兄弟が信長に加担をしたという咎で本願寺僧兵に攻められ、殺されるという事件があった。

天正8年(1580)、本願寺が降伏することで信長の勝利に終わった。

1581年、信長の命令で八尾城に新しい城主がやってきた。その城主は1563年に洗礼を受けた切支丹の池田丹後守である。家臣には後の高槻城主となる高山右近がいた。

その八尾城には堺からフロイスが来ている。フロイスと言えば「日本外史」という全五巻の大作を後世に残した著名な宣教師である。

沼を通り、田井郷中の五条河原を船で渡ると、「八尾に着くと、人々は道にバラを敷き、荘厳な宴を催してくれた」(イエズス会日本会報) とその頃の歓迎ぶりが記されている。

当時、八尾城周辺には(八尾座から別宮にかけて)切支丹が800人ほどいたとされている。

関ヶ原合戦より遡ること28年前の元亀3年(1572年)には、三好、畠山の確執から、三好方が五条河原下の田井郷に城を構え、山中彦太郎や赤沢甚六らが立て篭もったという記録がある。これを何とか斡旋しようとした南都一条院などが使いの者を派遣したが、使いの者が大和川を渡る船に乗ろうとすると城の中から、4、50人が打って出て渡船も出来ずに帰ったという。(八尾の史跡より)

資料からうかがえる江戸・明治の田井中

亨保年間

享保11年(1726)の村明細帳によれば、江戸へは130里余、京都へは13里余、大坂へは4里。

田井中村の石高は861石1斗7升8合 耕作地反別54町3反24歩

内訳

文禄3年御検地

高328石8斗1升1合(庄屋理右衛門扱い)反別は20町7畝7歩 家数は42 人数203 牛6頭

延宝7年本田出雲守御検地

高520石3斗6升7合(庄屋甚兵衛扱い)反別34町2反3畝17歩 家数は65 人数345 牛9頭

恩賞等などで何度か天領と旗本とが治める領地であった為、上記のように田井中村には2人の庄屋がいて、それぞれが年貢を管理していた。ちなみに記録にある時代は全てが天領であった。

田井中には旗本領の出先機関である代官屋敷が設けられ、奈良の支配地(秋篠)から里人が来ていたことが角野文書から判っている。在った場所は志紀学園の西、五段ほどの石垣に囲まれ、現在は駐車場と志紀学園の運動場となっている所であった。

昭和50年代までは田井中一の壮大な屋敷が建っていたが、老朽が激しく、建物の一部が志紀学園の校舎に倒れかかった為に取り壊された。

その際、屋敷にはたくさんの古文書や木版があったそうだが、解体の際、残念ながら、それらの多くはその場で焼却されてしまった。しかし一部は焼却を免れ、現在も角野文書として八尾市立歴史資料館に保管されている。

田井中の旗本領は地元に役所があったが、幕府(天領)の役所は近江の信楽や大津にあって、ひとたび申し立てなどがあれば滋賀県にまで出向かねばならなかった。

田井中村全体としては戸数は107戸・人数548人でその内訳は男204人、女344人とある。 ちなみに明治九年の戸数は118戸・人口489人とある。(大阪府地名大事典) ほとんど移動がない。産業も経済も特出していない村であったというのが、このことからもよくわかる。

氏神

牛頭天王社1社。境内には宮建物があり、敷地面積は4畝13歩。但し東西7間、南北19間は免税地。天満宮が境内にあり、宮守である久弥が神官をつとめ、宮座13軒が年番で相勤

寺院

 2寺と1庵

東本願寺下の安伝寺の境内は5畝13歩。但し東西13間、南北12間1尺は免税地。

西本願寺下の空円寺の境内は24歩。但し東西3間4尺、南北6間3尺は免税地。

庵とは東本願寺下光徳寺(柏原市雁多尾畑に現存)の末流。但し境内は御年貢地であった。

御検地帳はそれぞれの庄屋、理兵衛は1冊、甚兵衛が2冊所持していた。

郷御蔵

年貢米を貯蔵する郷御蔵は2ヵ所あり、郷蔵番は4人。但し郷蔵1ヵ所につき2人まで。有米の間は百姓当番を決めて警備をした。

その一つは桁行3間半、梁行2間半の惣瓦葺きで、庄屋甚兵衛の屋敷内にある。

もう一つは桁行4間(7.2M)、梁行2間半(3.6M)で惣瓦葺き。外に一方梁行半間(0.9M)のひさし付き。こちらの方は寸法からも平成年間まで現存した郷御蔵に合致するものである。

御制札の類は但切支丹御高札1枚、火もと御高札1枚。それぞれの庄屋の管理する郷御蔵近くに立てられていた。

田井中村の様子

  1. 当村の田の地面の様子は水分が多く、やや粘土質である。当村の集落は平均東西に約150間(270M)、南北に約80間(144M)。田地は東西にそれぞれ約270間(390M)、南北にそれぞれ約540間(972M)である。

  2. 用水は大和川石川の築留、青地、井出口の3ヵ所の樋より用水を引く。ただ夏には水が枯れる。その上に当村は柏原村、弓削村の裏村につき、年々それがひどくなっている。

  3. 年貢米は道のり7町余り(760M)南を流れるにこぶ川より大坂京橋まで、川路4里(16KM)を舟賃百姓持ちにて積廻す。二条御蔵詰の際は京橋より下鳥羽まで、川路13里(52KM)を御役船に積登し、下鳥羽より京二条までは、道のりにして3里(12KM)を御役車にて運ぶ。御蔵詰の際は当村から二条まで百姓が荷につきそう。

  4. 当村は金剛山、高野山の道筋である。

  5. 大和海道筋は当村の支配するところで、南北長213間(385M)、但し道幅9尺上は天王寺屋新田領、下は弓削村本田であるが、海道は当村の支配に付き、御伝馬宿(税)や人足(使役)に相勤めている。海道は当村より12町(1200M)離れている。

  6. 城壁や河川などの普請に関する手助けはご公儀様より割当て表が届けられる。 7.男は耕作の合間に縄や俵作り、その他は外で野良仕事をしている。女は収納時以外は、木綿を織り、年貢の足しにしている。

  7. 当村には大池や大沼はない。切支丹もいないし、牢屋もない。御追放者や村預かり者はない。 9.当村は人馬提供の指定郷ではない。また草芝刈場はない。

  8. 当村には鉄砲所持する者、酒商売人、猿回し、山伏、こも僧、市、こせ、座頭、浪人、鍛冶桶屋、大工木こり、道心者、馬喰、馬医師などいない。

  9. 村の夜警は4人以内、相勤。

  10. 時を知らせる太鼓は例年半夏生から八朔まで昼九つ八つ2度打ち。但し打賃は麦1石5斗。村中より集める。

  11. 医師は1人。名を久弥という。

  12. 商人は5人。内訳は油商1人。糀商1人。米麦粕干鰯商3人。

  13. 左官は2人。四良右衛門と伊兵衛。

  14. 髪結は2人。1人前、年間米2升麦2升。

  15. 非人番(村の治安維持・火の用心が仕事)は1人。朝晩食べ物を与え、その他村中より米6斗を集米し給与。

  16. 歩き(小使い人)は2人。但し1人につき米麦2石給与。17.村には市はない。

  17. 村に大きな普請や川欠、山崩などはない。

  18. 百姓の持ち林は無い。

  19. 薪入用の折りは1里余り離れた大県郡(柏原市大県)から買う。

  20. 新田など新たに開発可能な土地はない。

  21. 当村には川船も廻船もない。

  22. 当村には名物品となるような物はない。

  23. 年寄役に俸給はない。

  24. 当村は田畑では稲、木綿を作っている。

  25. 田には一反に付き、籾5升を蒔く。ただし、当村の田植えは時期は半夏至の頃である。

  26. 田には一反に付き、木綿の種をしめて7、8百目を蒔く。

  27. 作付けについてはまだ続くが割愛する。

日常生活の取り決め

寛永20年(1643年)百姓所有の田畑の売買を永久に禁止した。脱税等を防ぐためであった。その他農民の生活についても厳しい制限と指導をする。

中でも慶安2年(1649年)に出された御触書は歴史的にも有名だ。それによると、

  1. 品行をよくし、親に孝行をせよ。

  2. 掟をよく守り、名主組頭を真の親と思え。

  3. 大茶を飲み、社寺詣りや、外出を好む妻とは離縁せよ。

  4. 米を食べず、麦、粟、稗、菜、大根を食べ、大豆や小豆の葉、芋の葉も捨てずに食べよ。

  5. 百姓は粗服を着、髪にも油や元結などを用いず、藁で束ねること。

  6. 朝は早く起きて草を刈り、昼は耕作、夜は縄や俵を編め。

以上の取り決めからもわかるように、江戸時代は庶民の生活の中にまで様々な干渉をしていた。

年貢の延納願い

嘉永3年10月作柄が不作に付き、年貢などの延納願い出た書があるので書き写すことにする。当時は概算でも収穫の半分は年貢として領主に納めたので、凶作等になると大変であった。

「乍恐書附ヲ以御願奉申上候

当御支配所 河州志紀郡田井中村 一、近年凶作打続百姓一統困窮・・・・ 」、以下五章に渡って願書が書かれている。

掲載は省くが要約をすると、

「台風、大雨その他の天候不順である。稲にしても木綿にしても今年で三年続きの不作で、すでに田畑も家を担保に質に入れ、金を借りているので今は何も残っていない。

宝永の大和川の川違いの後、満足な水がなくなったこともその遠因であろうかと思われます。この頃では年貢はもちろん肥料代にも事欠く始末である。村でもお互い節約、自粛に勤め、更なる節約をするため、村に立ち寄るいかなる商人といえども、その立ち入りを拒否しておる次第でございます。

そんなことでありますから、今年の租税に関しては、向こう三年間の分納で納めたい、と思いますので、大慈悲を以て許していただきたい。百姓代 太兵衛 年寄 庄右衛門 庄屋 蔵兵衛 ・・・」

と、だいたい以上のようなことになる。

ここでいう百姓代とは農民の代表者で、年寄は五人組の代表者である。百姓代の役目は、庄屋や年寄の不正を監視する目付役であった。庄屋といえども百姓代にお伺いをたてなければ何も出来ない。どうも権力ばかりが目立つ時代背景であるが、その中にあってこのような機構があったということは民主的である。

所領所轄の変遷

年 月 所領または所轄庁
万治年間 徳川氏直轄(代官石川伝兵衛支配)
 474石903
牧野佐渡守所領 400石526
延宝六年 本田出雲守の所領
元禄七年 戸田山城守の所領
享保三年 徳川氏直轄(代官桜井孫兵衛支配地)
天明三年 徳川氏直轄分
 339石913
堀田弾正所領
 535石516
明治元年 大阪府南司農局の管轄に移る
明治2年 河内県に属し、知事の治下に入る
同年8月 廃藩置県の制令によって、堺県の所轄になる
同5年5月 区制定によって堺県下河内国第18区に編入
同8年 大、小区制に改め、堺県下第2大区、第3小区3番組と変更
同12年 区制の廃止
同14年2月 堺県を廃して、大阪府の所轄となる
同22年 町村制の実施により、志紀村大字田井中村と呼称

町の金融

金銭の貸借としては室町時代に酒屋、土倉が出来、庶民の間では頼母子講や無尽が出来た。

江戸時代になっても、今のような組織的な金融機関はまだなく、質屋が盛んに利用された。柏原市の三田家にはその当時の記録が残されている。

・・・「天満小貸銀会所」は明和年間に大坂天満富田町で吉野屋治兵衛が始めた金貸屋で、貸付については、借り主及び請人(保証人)共3名の連帯で、担保を必要とせず、利子は1ヶ月銀百目に対し1匁3分であった。

手続きが簡単であるため、あちこちの村の多数の百姓が借銀した。

柏原村では天明3年(1783)には44名の借銀者がいた。当時の総戸数約320に対して1割3分程の多きに達した。これが期限内に返済できず、訴えられると本人に家主と庄屋が付き添い、大坂西番所へ呼び出されるので、村役人への迷惑も大変なものであった。

また日延べした上でも返済しない時は入牢が待っていたので、これを恐れて失踪する者もあり、あるいは破産者が出来るなど放置できない問題が出てきた。よって奉行所では天明2年6月以降、同所より借銀する際は必ず村役人の奧印を要する規定を設けた。多数の百姓が借銀していた村名として田井中村も載っている。

施行名前帳(明治3年2月)

田井中における困窮者に施しをした記録で、いかに困っていたかを窺うことが出来る。とにかく住民の生活程度が低く、困窮する者が相当数あったようである。

施行名前帳によると、

「一、堺県八尾御坊御出張所並びに堀田御知行所も領地替えにつき同地に相成候、・・・」 とあり、要するに、見込み違いの大凶作が発生したために支払いが出来ないことを書いている。この年の大凶作はかなり深刻で、この事態を重視した明治政府は、農村の窮民対策として村単位で1万石に付き百両の救済金を出すことになった。

そこでその金にて白米を買い、一人に付き五勺の計算でお粥を炊き、5合杓に一杯ずつ配ったと施工名前帳には記載されている。 百姓代の世話で、初午の日を初日に、毎日午前11時には出来上がった粥を施すために鐘を鳴らすともある。一人に付き1日5勺の米を5合の粥に炊いて食べていたようである。

窮民救済(明治23年5月)

「趣旨

田井中窮民先ニ有志諸君ノ救済ニ依リ長ク糊口シ然レドモ限リアル救済米ナレバ去月十四日限リ終了シ示後農事多忙ニ至リ男戸主者ハ夫々業ニ従事シ幾分ノ賃金ヲ得テ糊口シリモ・・・・  ・・・」

つまり、田井中の窮民の飢えを救う為に、すでに長い間に渡って有志達によって、救済活動が行なわれてきましたが、救援米にも限りがあることで、断腸の思いで四月十四日をもって終了いたしました。

しかしながら、男は農事が忙しい時期に入ったこともあって、多少なりとも働けば賃金なりとも得ることが出来、飢えをしのぐことは出来よう。ところが寡婦の家はさらに悲惨である。女子供は仕事がしたくてもその仕事すらないのだ。身の回りの物を売却して金に換えるような余品もすでにないだろうから、日々の食べるものにも事欠くことになる。困窮の極みに陥るのは目に見えている。さらにこのまま放っておけば餓死するに決まっている。実に同じ村人としても見るに忍びない。

そんな思いから、今回発起した。どうかみなさんの賛同を得て、その有志を募りたい。もとより義援の多少は問わない。とにかく第二回特別救助の出来ることを心より希望してやまない。

義援の方法

一、5月14日より6月14日までの32日間に渡って救済する。救助者口数は45人。1人に付き、1日1合合計4升5合とする。

一、不動産所有者は救助しない。救助を受ける者のうち、男戸主は除く。その他の家族は平等に救助する。

一、1日1合を粥にして施しをする。支給については村の小使いがその任に当たることとする。粥の炊き出しは受給者で順番を決めること。

一、一切の費用は集米の内、幾分の余米が出るはずだからそれを充当する。不足が出た場合については村の協議費により補助をする。さらなる不足分については村所有の借家の家賃より出金する。

周旋人  辻田順三郎 有志者名簿   白米7升 角野竹三郎 (以下24人省略)

惣計  1石5斗3升(参考:富田榮太郎氏所有古文書より)

交際費等の出費は今も昔も頭痛の種

我々の生活には時として消長浮沈があり、一進一退、ともすれば浮き華に流れ、豪奢におちいりやすい。村の指導者は村民のあり方、生活について苦慮し、協議をして華美になりがちな暮らしに規則を作って励行に勤めた。

こうして決まった規約はしばらくは励行されるが、いつの間にか規約が反古にされる。ない方にこしたことはないが、ついついエスカレートをする。見栄を張り、放蕩になっていく。

古く室町期の郷村時代から平成7年まで今日に至るまで作っては破り、作っては破りの繰り返しをしている。下記の規約は明治17年に作られた弓削村の規約である。

節約のための盟約書

近来、なにかとお金のがいる事ばかりである。村人の口から困窮の言葉が出ている。よってこの度、全村で協議をした結果、明治17年4月より向こう5ヶ年間、質素倹約の方法を決め、定めるとする。

出産

祝いや広めの為に赤飯などを配るのは親戚といえども駄目で、祝いで招待出来るのは髪結い、産婆に限る。出産見舞いに関する祝儀やその祝い返しは一切してはならない。

婚礼

広めの為の赤飯を配る相手先は親戚や近隣で特に懇意(仲良く)にしている者に限る。式に招待する者の人選はその家の自由とするが、質素倹約を守ること。

葬儀

葬儀があれば村役員が2人が手伝いをし、規約の遵守に勤める。親戚を除いて他村からの悔やみ人は一切断ること。葬儀や忌中の供え物は村の親戚、懇意先といえどもしてはならない。もしかりに他村の者から供え物を頂戴しても、村の者に配ってはならない。

手伝い人の数は戸長とよく相談の上で決めること。但し同行はその限りではない。賄いに関しては禁酒で、膳は親族や懇意にしている者に限る等。以下省略

念仏手踊御願

明治24年8月、当時の所轄署であった国分警察署柏原分署宛てに念仏踊り開催の願い書が出されている。

念仏手踊御願

今年は好天気に恵まれ、農民たちは非常に喜んでいる。つきましては村人総員の希望により、昔より村に伝承されてきた念仏手踊を来る14・15の両日、午後6時より午後11時まで、鐘や太鼓を打ち鳴らし、寺院及び墓地において施行いたしたく、また喧嘩争論などは当村にて取締管理いたし、迷惑はおかけしません。

また7日より13日までの7日間、午後6時より11時まで、田井中427番地の宅地において下稽古を致しますのであわせて許可願います。

死人が歩いた?

江戸時代、田井中は幕命で番人(巡査の前身)を雇っていた。

番人は村から朝夕の食事を支給され、さらに俸給として年間白米6斗をもらった。1斗は10升だから、月に換算すると5升。農民の主食が粥や麦粟稗であったことを考えると、大変リッチである。{亨保11年(1726)田井中村明細書より}

さてその仕事の内容であるが、御郷蔵の警備が主で、ときどき村に迷い込む浮浪者や作物を盗むこそ泥を追い払い、夜になると火の用心をふれて歩くことくらいであった。純朴な農村である田井中に犯罪などもなく、のんびりしたものであったと思われる。

大塩平八郎の乱

ところが江戸後期の天保8年(1837)2月19日早朝、大坂は天満に号砲がこだました。豪商の私蔵に次々と砲弾がぶち込まれ、橋は至る所で破壊され、町衆がその騒ぎに加勢し、帯刀をふりかざす武士たちで大混乱となった。幕府崩壊の始まりとなった、大塩平八郎の乱である。

暴動の根源は数年来に亘る飢饉にあった。民が飢えで苦しんでいるのに、官史や富豪が豪奢を欲しいままにしている。南町奉行の元与力で、天満に洗心洞を開いていた陽明学者大塩平八郎はそれをけしからんと怒ったのだ。

約三百人ほどが武装蜂起をしたが、わずか半日ほどで鎮圧されてしまった。その中には乱後、逃亡先の江戸で病死する弓削村の豪農西村利三郎、さらには彼を慕う同村の農民16人がいた。

20日の夜、大塩父子、同心渡辺良左衛門、与力瀬田済之助ら4人は平野川沿いを河内に逃走。折からの豪雨を避けるため、田井中の神剣神社で雨宿りをしていた。

田井中の村にも日頃より西村に指導を受け、大塩の思想に心酔する若者たちが多数いて、彼らに食を与え、世話を焼いた。ところが深い傷を負っていた渡辺が足手まといになるのを苦にし、もはやこれまでと、社殿で自害してしまう。

翌朝、社殿の血しぶきに村人たちは騒ぎだし、若者たちを問い詰め、墓地に埋葬されていた渡辺の遺体を掘り起こした。えらいこっちゃ。番人は頭を抱えた。弓削村では捕り者たちが血眼になって西村たちを探してる。まもなく田井中にも来るやろ。世話を焼いたことがわかったら、ただではすまへんがな。

やがて番人は庄屋に村中に箝口令を敷くことを進言、遺体を廃家に隠し、捕り者たちの動向に目を光らせながら、ひたすら日が暮れるのを待った。

番人が奉行所へ渡辺の遺体発見を届け出たのは翌22日の朝である。奉行所の事件簿には自害場所は不明、遺体は五条宮祉にあったと記載されている。背高い竹薮の中に死体が巧妙に隠され、それで発見に手間取ったとある。しかし真相は、村の将来を担う若者たちの身をなによりも案じた番人が闇夜に紛れ、村から6町も離れた五条宮祉まで死人を背負っていったのだった。

なお、大正3年に文豪森鴎外が小説「大塩平八郎」を書き「中央公論」に発表している。何度か田井中が出てくるので、興味のある方はご一読ください

志 紀 地 区 の 歴 史

雄略      天皇、河内国に行き、山上から堅魚木で飾った志紀大県主の家を見つけ、これを焼かせた。(古事記)
5 8 5  3/敏達 14   物部弓削守屋大連、仏法をせめて寺を焼く。 (日本書記)
5 8 7  4/用明 2 物部守屋と蘇我馬子、仏教の摂収をめぐり論争、守屋怒って阿都に帰り兵を集める。 (日本書記)
    7/ 寺伝によると、守屋打倒の祈棚所として、大和国家46ヶ所の仏閣伽藍として久宝寺創建される(念仏寺文書)
588   6/崇峻 2 守屋が穴穂部皇子を擁立したので蘇我馬子はそれに反対し、左迫連、土師連を遺って誅する(教興寺文書)
7/ 蘇我馬子ら守屋打倒のため、志紀郡より渋川の家にせまる。物部大連親子ら木ノ本で稲城を築き戦う。この時、厩戸皇子(聖徳太子)、勝利を祈願して寺塔を建てることを誓う。(教興寺文書)
594推古 2 寺伝によるとこの年、戦勝を祈願した椋樹の下に大聖勝軍寺を創建し、椋樹で自から彫った太子十六才像と四天王像を安置する。(勝軍寺文書)
623 11/推古 21 この年、難波より都に至る大道(田井中付近を通る)を開く。(日本書紀)
6/11 河内国飢饉により賑救うける。(続日本紀)
667天智 6 高安城が築かれる。(日本書記)
766  10/20 道鏡法王になる。 (続日本紀)
767 7/24神護景雲1 志紀郡の山川造魚足ら9人に山川連の姓あたえられる。 (続日本紀)
769神護景雲3 志紀郡の岡田昆登、稲城ら 4 人に吉備臣の姓あたえられる。(続日本紀)宇佐八幡神託事件。 
10/17 称徳天皇、弓削に行幸する。(続日本紀)
10/21 天皇、大和川流域の河内の市人を集めて竜華寺で市を開く。また竜華寺のために綿、塩を施入する。     (続日本紀)
10/30 天皇、由義宮を西の京とする。そのため河内国に河内職をおき、藤原雄田麻呂を河内太夫とした。また河内国の今年の調、大県、若江2郡の田租、安宿、志紀2郡の田租を免除し同時に当国で死罪以下の罪を犯した者も特赦した。(続日本紀)
770 1/12宝亀 1 大県、若江、高安3郡の百姓の家で由義宮域にあたるものを買収する。(続日本紀) 
2/27 天皇、由義宮に行幸する。(続日本紀)
3/3 天皇、博多川で遊宴し、百宮文人、大学生ら曲水之詩をたてまつる。(続日本紀)
3/28 由義宮を讃えて、葛井、船、津、文、武生、蔵の6氏の男女230人か歌垣を催す。(続日本紀)
4/5 由義宮に寺塔が建てられ、その労に従って所司、雑工ら95人に位階があたえられた。この時、船連浄足などー族の長老ら歌垣を天皇のために催す。(続日本紀)
4/8 弓削氏の一族に天皇から賜物される。(続日本紀)
4/11 弓削宿禰牛養ら 9 人に弓削の朝臣の姓を、弓削連耳高ら38人、及ひ美努連財刀自、矢作造国らに宿禰の姓あたえられる。(続日本紀)
6/10 天皇、由義宮に行幸する(続日本紀)
7/22 志紀・渋川の大和川堤及び茨田の堤を延べ3万人余の労働力で護岸工事が行われる。これが八百柵((やはのき)(八尾木))と呼ばれるようになる。(続日本紀)
8/21 道鏡、下野国の薬師寺別当に左遷される。(続日本紀) 
8/22 道鏡の弟、弓削浄人ら4人土佐に流される。
770 8/26 河内職を河内国に復させる。(続日本紀)
772 4/7 下野国司から道鏡の死が伝えられる。(続日本紀)
794 延暦13 平安京に遷都。
938 天慶 1 この頃、この地域とその周辺の郷名に、高安郡(坂本・三宅・掃部・玉祖)若江郡(弓削・刑部・巨麻・錦部・新治)渋川郡(竹淵・跡部・餘戸・賀美)志紀郡(志紀・田井・井於)  田井は後の田井中、井於は老原である大県郡(津積・大里)なとがあった。(和名類聚抄)
938  天慶1 空也、念仏を説き、念仏踊を始める。
1167 4/25 阿闍梨定慧に石清水八幡宮の所領河内
仁安 2 甲斐庄・相博庄・田井庄などを知行させる。(石清水文書)平清盛、太政大臣となる。
1180-1185 源平の合戦。平家滅亡。頼朝、守護・地頭をおく。
1286 弘安9 時宗の徒・一遍、河内国を歩く。
1305 4/12 嘉元 3 この頃、矢尾顕幸は楠木正玄・正成の父子と大和川をはさんで争う。(八尾城はこの頃築かれるか。)(楠公正成年表等)
1331 9/14 元弘 1 楠木正成、河内で兵をおこし赤坂城にたてこもる。 (増鏡等)
1332 4/28 元弘 2 八尾顕幸、手兵150人を率いて南朝に加担する。(楠公正成年表)
12/9 幕府、護良親王と楠木正成を攻めるため、畿内の諸大名に出兵求める。(和田文書等)
1334 建武1 建武の新政始まる。
1336 5/25 湊川の戦で正成戦死。この時、神宮寺北)建武 3 太郎兵衛、矢尾新介ら一族28名も討死にする。(大平記等)
1337 7/4 南朝側、八尾城の塀ぎわまで攻寄す。以北)建武 4 (和田文書等)南)
延元 2 8/16 南朝側、八尾城に押寄せる。城側、前方の大和川五条河原で合戦するも城内まで攻め込まれる。 (和田文書等)
10/5 南朝側八尾城を取囲み、城内の堂舎・仏閣・矢蔵・役所など火矢で焼く。(和田文書等)
10/9 細川顕氏、南朝軍を東条まで攻める。この日、恩智河原で南北両軍合戦する。(和田文書等)
1337〜1338 この間に田井中の村移動があったと考えられる。
1338 足利尊氏、征夷大将軍となる。
5/22 南軍高安の砦を攻め付近を焼払う。この日萱振でも南軍火を放つ。(和田文書)
6/22 松原城で南北両軍合戦する。(和田文書)
6/29 河内の萱振で南北両軍合戦する。(田代文書)
7/22 橋本・和田ら河内松原城の北軍を攻撃する。
7/24 八尾寺別当賢幸卒す。
(南朝編年紀略)1339 8/12 南朝軍、高安の陣地を焼払う
1347 9/9 楠木正行の将・和田助氏、秋山彦六が北)貞和 3 たてこもる八尾城を北軍が攻める。南)正平2 (和田文書)
1347 9/17 細川顕氏、楠木正行の率いる恩智、和田ら貞和 3  3,700余騎と藤井寺・教興寺・矢尾で合戦し村々が焼ける。(太平記等)
1348 1/5 高師直、河内東条攻めのため讃良郡よ北)貞和 4 り南進し四条畷で合戦する。南軍破れ神南)正平 3 宮寺小太郎ら正行と共に戦死する。(園太暦等)
1/14 師直、東条を攻撃する。(和田文書)
9/4 師直の兵、南軍と河内で合戦する。(正閠史料)
1351 9/9 河内国八尾城へ南軍攻める。南)正平6 (和田文書)
1352 5/2 足利義詮、石清水八幡宮に河内国田井北)文和 1 荘地頭職を寄進する。(石清水文書)南)正平 7
1359 10/18 幕府、高師秀に命じ石清水領の河内国田井荘地頭職を同宮雑掌にまかせる。(石清水文書)
12/25 義詮、京都を出発し摂津に向かう。畠山北)文和 4 国清は河内国四条で南軍と戦う。この頃、南)正平 14 八尾城は南朝側の真木野、酒辺など800余騎がたてこもる。 (太平記等)
1361 6/24 数日来地震続き、当夜また大地震のた南)正平 16 め四天王寺金堂倒れる。(後愚昧記)
1371 5/8 細川頼基、南軍を攻めるため河内に向う。北)応安 4 (荘官三代記)
6/22 北軍、淀川を渡り河内に入る。(荘営三代記)
11/5 南軍、河内瓜破で戦い敗退する。(荘官三代記)
1378 永和4 足利義満、室町・花の御所に移る。
1390 この春、楠木・和田らと山名・畠山ら北)明徳 1 河内で合戦する。 (南方紀伝)
1392 弘和9 南北朝合一。
1457 8/ 河内国で関所撤廃の土一揆おこり、関所616カ所破壊する。(経覚私要抄)
1457 長禄1 蓮如、本願寺第8代法主になる
1459 この年、河内国で旱害おこる。長禄 3 (碧山日録)
1460 2/9 畿内、二日続いて地震おこる。寛正 1 (碧山日録)
1461 8/1 蓮如、慈願寺の釈法円のために聖徳太子寛正 2 三体画像に署名する
1465 3/ 蓮如、河内久宝寺で「一年二季彼岸事」寛正 6 を書写する。 (奥書)
1467 2/16 久宝寺の慈願寺に蓮如より真筆「口伝文正 2 抄」三巻が与えられる。(慈願寺文書)
1467-1477 応仁の乱。
1467 12/19 平等院領の河内国玉櫛庄の田地及び公応仁 2 事銭等を武家の下知にまかせる旨の院宣が出される。 (安本文消息類)
2/28 この冬、河内国久宝寺に蓮如(57才)おとずれ布教する。帰する者市の如しといわれた。この頃、萱振の恵光寺、寺伝によると蓮淳により開基され、寺内町をつくる。(大谷本願寺通紀等)
3/11 蓮如、親鸞の筆と称せられる法然上人画像に裏書して慈願寺にあたえる。(慈願寺文書)
8/4 義就の部将ら政長側が守る若江・誉田の両城を攻める。河内の各地で戦火こうむる。 (大乗院寺社雑事記等)
1471 6/2 義就の部将・遊佐五郎、河内に入り村で放火する (経覚私要抄)
6/21 大内氏の兵、河内に攻めこみ政長の兵と戦う。 (経覚私要抄)
1473 8/10 河内の8カ所へ遊佐方攻寄せ、翌日在 5 所を焼く。 (東寺執行日記)
1475 8/ 文明 7 蓮如、吉崎を退去して河内国出口の道場で布教活動する。(蓮如上人文等)
9/22 蓮如、慈願寺に親鸞上人絵伝あたえる。(慈願寺文書)
1476 文明 8 10/26 蓮如、慈願寺法光のため親鸞上人画像に署名する。 (慈願寺文書)
1477 9/22 文明 9 畠山義就、兵を集めて河内八尾城に向う。幕府その後を追撃する。(親長側記等)
1483 8/10 河内の村々で合戦続く。文明 15 (大乗院寺社雑事記等)
1485 8/4 文明 17 山城・大和・河内で徳政一揆おこる。
1488 長享2 この頃、蓬如、久宝寺村に西証寺(明 1 顕証寺)を創建し第21子の実順を遺る。(大谷本願寺通紀等)
1492 加賀にー向一揆おこる。
1496 9/ 本願寺蓮如、大阪石山別院を創める。(蓮如上人御文)
1500 このころ田井中に一向宗の専修道場が出来る。後の安傳寺となる
1510 5/ この月、近畿雨多く洪水おこる。永正 7 (管見記等)8/8 近畿に大地震、この時八尾常光寺ことごとく倒壊する。(常光寺文書等)
1529 この年久宝寺の西証寺、大津の顕証寺享禄 4 より蓮淳を招き、寺号も顕証寺と改める。(大谷本願寺通紀)
1549 天文18 ザビエル、鹿児島に上陸。
1568 永禄11 織田信長入京。
1570 7/25 元亀 1 松永久秀ら三好三人衆の河内進出を聞き、信貴城に出陣する。(多聞院日記等)
9/14 河内のー向宗道場、ことごとく根来衆   によって破壊される。 (言継側記)
1571 1/10 河内国戦火をこうむり、百姓困窮する。元亀 2 (多聞院日記)
1572 3/ 元亀 3 志紀田井中で山中・赤沢ら三好方の砦をかまえ、南郡からの和睦の使者を追い返す。(畠山家譜)
4/16 信長側の軍勢、若江城に陣をしく。
1573 天正1 室町幕府滅亡。
1574 4/2 天正 2 本願寺顕如、大坂で挙兵、三好・遊佐らこれに呼応する。信長出陣し顕如と争う。 (足利義昭御内書等)
1614 慶長19 大坂冬の陣。八尾・藤井寺周辺で武者が集結。
1615 元和1 大坂夏の陣。八尾近隣で戦。
1679 7/ 1 延宝7 この年、志紀郡田井中村の検地では村高532石3斗6升7合、反別34町2反3畝7歩で、文禄3年の検地高328石8斗11合、反別20町7畝7歩よりも開墾により203石5斗5升6合の増であった。(田中文書)
1680 3/ 延宝 8 この頃、大和川筋の河内の村々で、私設の在郷剣先船が活動したので幕府はその停止を命ずる。 (大阪市史)
1683 4/23 幕府の大和川付替杭打ちに反対し、西弓削・田井中・沼・太田・南木ノ本・西木ノ本・北木ノ本・竹淵など27ヶ村の百姓ら、巡見役人に5ヶ条の理由を付して訴える。(柏原文書)
1684 貞享 1 この年、大和川筋の北・中河内辺の森河内・若江村など23ヶ村の在郷剣先船78艘が認可を受ける。 (大阪市史)
1703 元禄15 河州志紀郡・丹北郡・摂州住吉郡の31ヶ村の百姓ら川違迷惑の訴訟を奉行所に提出する。(柏原文書)
10/28 幕府、大和川付替のため普請奉行に大久保甚兵衛忠香・伏見主水為信・万年長十郎を、また勘定奉行に稲垣対馬守などを任命する。(徳川実紀)
1704 2/13 宝永 1 この日、柏原・船橋村間に始まり、住吉郡安立・堺の間を経て大坂湾に至る、全長14,414 m、幅182mの新大和川工事着工される。 (大和川付替工事史)
3/ 4 新川普請のため大勢の人足が村々に止宿したので、村内の火の用心などの制札や新川筋に当る家々の立ちのきの刺札かかげられる。(柏原文書)
4/ 1 太田村でも川違普請で集められた人足の取り扱いで、争いがおこらぬよう奉行所より事前に申し渡される。(柏原文書)
9/ 太田村では川違普請のため田畑を失ないその上、用水路などの変更のため、残された土地の耕作も思うにまかせず、加えて普請奉行役人の投宿のために負担がかさみ、百姓が困窮したので年貢免除を訴える。(柏原文書)
10/13 この日、川違普請完成し新大和川に水を 入れる。 (大阪市史) 新大和川の完成とともに築留1番樋を伏込む。 (畑中文書)この頃まで、平野川筋の村々でも、百姓は手舟を持ち、肥料・粕・干鰯などを運搬したが、柏原船仲間に訴えられ、百姓の手舟は廃止される。 (林文書)
1714 1/29 正徳 4 新大和川の剣先船運賃が改められる。それによると1駄につき大坂から太田村まで1.45匁で、前年までの2.18匁から大巾に引き下げられる。 (三田文書)
この頃、弓削村の西村市郎右衛門、柏原・田井中村の庄屋らの同意をとりつけるも、奉行所の許可をまたずして新大和川の青地井出口に2樋を伏込み、了意川に潅漑用水を流して枯死寸前の稲を救う。ために幕府の怒りに触れ、大坂城中で市郎右衛門は客死し、また家財も没収されー家断絶する。(顕彰碑文等)
1716 享保の改革ははじまる。
6/20 享保 1 柏原村築留が決壊し、河内・摂津が大洪水にみまわれる。
1722 11/ 享保7 柏原船の船賃、この年から1駄につき3ー5割増の高値になり村方大いに困る。ちなみに慶長定船賃と比較して北木ノ本村の場合、上り8分が9分5厘に、下り4分8厘が6分8厘となる。(林文書)
1723 2/21 享保 8 平野川筋 19ヶ村の百姓ら、柏原船の船賃の高騰に反対し、柏原船仲間を奉行所に訴える。 (林文書)
3/5 平野川筋の北木/本・太子堂・亀井・竹淵など22ヶ村、柏原船をこれら22ヶ村で管理すれば船賃も下がり、また運上銀も差し出すことができるとして願い出る。柏原船仲間との対立で慶長銀定めの船賃を新銀に改訂し、船仲間によるー方的な船賃の決定を改めさせる。(林文書)
在郷剣先船に恩智川・楠根川寝屋川筋での賃積み稼ぎ許可される。(布施市史)
1724 5/18 享保 9 太田・沼・田井中・弓削・老原・木/本・天王寺屋新田・二俣新田・市村新田など志紀郡25ヶ村、堤普請国役銀が北河内並の23匁8分を課され、これは新大和川をはさんで南北にある志紀郡にとって、南河内が銀6匁4分掛りだけに不当として、南河内並の国役掛り改正を要求する。(柏原文書)
1726亨保11 この年、田井中村明細帳によると、村高861石1斗7升8合、反別54町3反24歩で、延宝6年の検地より328石8斗1升1合増で、20町余が新らたに開墾されていた。また文禄3年の検地の際、家数42軒、人数203人、牛6疋が、この年、家数65軒、人数345人、牛9疋と増え、村内には油商(1)糀商(1)米麦粕干鰯商(3)、左官(2)医師(1)などがいた。(田中文書)
1730 11/ この年、弓削村高反別差出帳によると、享保15 村高858石5斗1升7合、反別56町9反2畝6歩、家数 129軒(高持41、水呑88)で、馬3疋、牛17疋があり、また奉公人の賃金は、男で銀60匁-90匁、女で30匁-50匁。作牛一疋が銀8 0 目- 160目  で売買された。さらにこの村ではこの年、2人の水呑百姓が家出したことなど記録されていた。 (左殿文書)
この夏・好学の人石田利清の求めに応じた伊藤東涯、先に訪れた八尾の風光をめで、その学問所に環山楼と名付け、扁額と 楼記を贈る。 (環山楼記)
1766 明和8 7/ 太田村、木本村など筧組9力村の百姓ら北・南木本、田井中、沼、西・東太子堂、西・東亀井、竹淵、弓削など大井村組合側の門樋をしめ切り、下流の村に水を流さぬようにしたため水争いおこる。(林文書)
1771 4/ おかげ参り大流行する。(摂陽奇観等)
用和8 5/27 江戸浅草円輪寺門前の伝右衛門、旧大和川の井路川筋で、剣先船の通船を奉行所に願い出る。(小川文書)
6/19 伝右衛門の願い出の件で、井路川筋75ヵ村の代表-築留組合2人、太田村樋組2人、沼村樋組2人など計12名が寄合する。(小川文書)
6/23 大和川築留75ヵ村の庄屋ら、江戸浅草伝右衛門の件で寺内村慈願寺に集まり、用水の妨げになるので奉行所で却下するよう申し合わす。 (小川文書)
7/13 平野川筋の太田村・木ノ本村な筧組7ヶ村、明和3年に大井村門樋を締め切り、新規に樋組合をつくった南・北木ノ本、田井中、沼、東・西太子堂、東・西亀井、竹淵、弓削村など21ヶ村との水争い、この日、代官所の裁定で和解する。 (小川文書)
1806 文化3 この頃、河内国村々、村内の米だけで自給できないため、大坂・堺に入津した西国 米を買請ける。ちなみにこの年は旱魃の被害をうけたが、志紀郡500石余、渋川郡 700石余、若江郡700石余、高安郡30石余買取った。 (松原市史)
1827 文政10 前年、村々の絞り油屋に、菜種・綿実を百姓から直買するよう触が出されたところ 、絞り油屋らは御用油屋と称して、各人の買場をきめ、下値で買取るようしむけたので百姓困窮し、その取締りを要求して弓削村など国訴に加わる。(左殿文書)
1830 3/ 天保 1 この年、前年の豊作でおかげ参り大流行する。(摂陽奇観等)
1831 4/ 天保2 八尾木村など河内 13ヶ村の庄屋ら、近年、村々の家数、人口が減少し田畑の作柄が劣る原因として、百姓が大坂その他の市町に奉公にで、金使いも荒く、美服を好み身持が悪くなり、また在所に帰っても農事をいとい、生活に困っては小貸銀を貸りて身を亡す者が多いので、今後は市町への奉公は堅く差止め、なるべく在所で男は農業を、女は木綿稼で身分相応の生活を送るようにしたい。また今一つは、大坂その他へ男女とも、養子縁組みを求める風があり、鋤鍬糸車の仕事より過分の衣服を求めるようになったので、これらを取締るよう役所に訴える。(木下文書)
1837 2/9 天保 8 大海平八郎、自分の書籍を売払いー万軒の困窮者に金一朱あて施行する。この時、弓削村の貧農ら16人も西村七右衛門の手をへて施行を受け、その際、大坂天満辺に火の手を見た時、大坂にかけつけるよう約束する。(左殿文書)
2/18 洗心洞門弟、弓削村の豪農七右衛門この日から家出する。(左殿文書)
2/19 大塩平八郎の乱おこる。弓削村の西村七右衛門、盟約に従い乱に参加する。(左殿文書等)
2/19 大坂天満辺に火の手を見た弓削村の 1 6人の農民ら、約束を守り大坂玉造辺までかけつける。(左殿文書)
2/19 西村七右衛門、この日の夕刻、大塩父子らと別れて夜10時頃、堺の姉むこ鈴木寛輔宅に身を寄せる。(浪華異聞等)
2/20 大塩の乱の重要人物である東組与力瀬田済之助、乱後逃亡中、恩智山中で自害する。また東組同心渡辺良左衛門も田井中村五条の宮附近で自害する。 (左殿文書等)
4/ 木ノ本村では飢餓のため大和川河原に百姓が集まり、張紙して救済を訴える。(河南町誌)
5/9 西村七右衛門、逃亡先きの江戸で5月以来、病魔に侵されてこの日死去し、浅草遍照院に願人冷月の弟子として葬られる。(左殿文書等)
1838 3/ 渋川郡植松村・志紀郡弓削村の庄屋ら河天保 9 内国1 6郡の百姓を代表し、先きの絞油屋の願いで各郡ことに取締下役をおくことは、種物の自由販売が制限されるのでそのような制度化に反対して国訴する。(大東文書等)
8/21 大塩の乱で裁決だされ、先きに死去した弓削村七右衛門、大塩と共に礫に処せられる。この時、七右衛門の浅草の墓も破壊され、同家の11町2反3畝の田畑没収によりー家断絶、離散の憂をみる。(浪華異聞等)
9/15 大塩平八郎の施行をうけ、乱の当日、大坂にかけつけた弓削村の百姓12名、この日、大坂東奉行所に呼び出され刑罰を受ける。 (左殿文書)
1839 9/ 八尾の村々で賭博禁止にもかかわらず後天保10 が絶えないのは、村役人の心得違いもあるとし、五人組の手で取締るよう触書出される。 (山本文書)
1846 5/ 弘化 3 大塩の乱に連座した弓削村七右衛門の長男常太郎、15才に達したのでこの年、隠岐国島後有木村へ流罪に処せられる。(左殿文書)
1849 5/ 嘉永 2 大塩の乱に連座した七右衛門の次男謙三郎、肥前国五島吉岡村に流罪申しつけられる。(左殿文書)
1853 嘉永6 ペリー浦賀に来航する。
1881 3/5 明治14 志紀郡村々でも小作米金取り立てをめぐり、小作人が集会し、一村ことに惣代理人を選び大阪府に嘆願する。(大阪朝日新聞)(志紀村誌)
1883 12/21 「田井中村取調書上」によると戸数124戸、人口571人、人力車2両、運送車2両、農産物、米364石、麦168石、大豆14石、小豆5石千斗など (吉内文書)
1894 明治27 日清戦争おこる。
11/18 河内6郡の日清戦争勝利祝賀会が郡役所で実施され、当日、相撲・玉突・縄引き・撃剣が催されたり地車などもでる。(大阪朝日新聞)
1895 1/29 明治28 志紀村字田井中の村民ら日清戦争に際して軍用わらじ千足を献納する。(富田文書)
7/ 大阪電燈会社、西郡・高安・曙川・志紀の村々にも電力供給を始める。(大阪電燈株式会社沿革史)
1919 4/ 大正 8 田井中尋常小学校を志紀尋常小学校と改称する。(志紀小学校沿革誌)
1921 4/ 大正 10 志紀尋常小学校に高等科設置される。(志紀小学校沿革誌)
この頃、現八尾市域町村の戸数、人口は八尾町1,506戸、9,075人、竜華村985戸、4,989人、久宝寺村511戸、3,117人で、久宝寺・大正・西郡・志紀・曙川・北高安・中高安・南高安村々ではいずれも大阪市内への移住のため、人口の社会減が目立った。(八尾市史)
1924 5/27 この年、中河内郡では自作2,016戸、大正13 自小作3,330戸、小作8,412戸、計13,758戸で、前年に比して農家数177戸が減少するなかで自作農地が13町歩増、小作農地が6町歩減となる。なお中河内郡の総戸数の6割は農家であった。(大阪朝日新聞)
1929 昭和4 1/ 関西電力八尾変電所が操業開始する。(関西配電社史)
3/16 志紀村田井中に志紀・大正・柏原の3町村共同の火葬場新設が総数1万円で近く着工される。(大阪朝日新聞)注 陸軍飛行場拡張のため16年に廃止され、二俣に移転
10/ 世界恐慌がおこる。この頃、志紀村では貝釦製造が同村を代表する家内工業となる。(府下農村に於ける副業的加工業の概況)
1931 2/17 昭和 6 金融恐慌のあおりで八尾銀行閉鎖する。(大阪朝日新聞) 注釈 明治29年10月4日八尾銀行開業
8/2 この日、第17回全国中等学校野球選手権大会大阪代表に、府立八尾中学校は強豪浪華商業を8対7で破り選ばれ八尾町民も大いにわく。 (大阪朝日新聞)
この頃から高安山麓の高台地や山本の玉串川沿に新興住宅が建ち始め、現八尾市域の町村戸数・人口が著しく増加し始める。 (八尾市史等)
1932 1/ 昭和 7 大日本国防婦人会結成される1932 3/23 平野・竜華間の産業道路完成する。なお竜華・柏原間の工事は来年完了の見込み。 (大阪朝日新聞)
6/14 志紀村では関西線志紀駅の停車数増加をめざし、田坪村長など村民有志により志紀停留所昇格期成同盟会を結成する。
9/27 平野・竜華・志紀・柏原・奈良に至る産業道路完成する。(現国道25号線
1937 6/12 志紀村は南河内有数の馬鈴薯の産地で、昭和12 栽培面積250町歩(郡内のし1/3 )産額50万貫に及び、遠くフィリピン・東南アジアにまで輸出する。そのため立毛品評会や実収調査の審査会など実施される。(大阪朝日新聞)
1938 4/ 国家総動員法公布される。
5/10 八尾町小阪合・中野の簡易水道使用地域に伝染病(腸チフス)が発生し、八尾伝染病院に98名が入院する。(大阪朝日新聞)
6/16 今年の1月以来、急ピッチで中河内郡大正村と南河内郡志紀町にわたる12万坪の土地に建設された阪神飛行学校、この日開校する。(大阪朝日新聞)
10/1 関西線の輸送力強化のため、昭和11年11月に総工費280万円で着工された竜華操車場-総延長33キロ、1日貨車1,000 輌、客車200輌収容が完成する。(大阪鉄道局史等)
1939 4/ 米穀配給統制法公布される。この年、阪神飛行学校の飛行場を大正飛行場と命名される。(八尾市史)
1940 昭和 15 6/6 大正飛行場が旧陸軍専用の飛行場として接収され、そのため周辺農家から強制的に土地収用して飛行場を拡張する。(八尾市史等)
1941 昭和16 4/1 国民学校令が公布され各町村の小学校は国民学校と改称する。(大阪府教育百年史)
12/8 太平洋戦争おこる。大正飛行場拡張のため、田井中村・大正村などで農地の強制的買収が続く。
1942 昭和17 大日本翼賛壮年団・大日本婦人会結成される。食糧管理法公布される。
2/20 八尾警察署管内でも豆腐の配給制が始まり3日に1丁づつとなる。(大阪朝日新聞)
3/ 大阪の人口増に伴なう受験者の激増対策として私立高安中学校が新設される。
3/ 大阪の人口増に伴なう受験者の激増対策として私立高安中学校が新設される。
5/ 大正飛行場の拡張続き、田井中村はじめ強制買収に農家の不安つのる。
1947 4/ 昭和 22 志紀村立中学校が旧陸軍航空隊兵兵舎を使用して開校となる。
9/ 国鉄志紀駅の営業が休止される。

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