平成28年5月25日

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弓削道鏡:前半

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歴史の中で跳んだり跳ねたりする

歴史を探求する人の多く(特に学者さん)は証拠至上主義である。中には証拠がないことは一切認めない堅物の御仁もおられる。

もちろん生業だから無責任な発言や発表はできないのは至極当然のことである。

しかしながら個人の楽しみの範囲として、ロマンを追い求める素人の歴史研究家にとっては証拠も大事だが、その証拠を踏み台に、さらに上方の空想の世界で跳んだり跳ねたりすることが至福の遊戯なのである。

私は四角四面の、刺々しい世の中にあって、自由に思うがままに想像できる自分だけの世界があっても良いと思い、時間があれば史跡を求め、新たな空想の世界を構築している。

同郷人・弓削道鏡再考

宝永の付け替え後、大和川流域の西側から北側に位置することになった八尾市志紀地区の郷土史を語るとき、避けて通れないのは郷土史上、幾多の有名人を輩出した弓削地区である。

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志紀村弓削

  1. 弓削道鏡を始め、江戸中期、干ばつで困り果てた多くの村のために禁断の樋を開いた西村市郎右衛門

  2. 若い頃より私塾洗心洞門下生として陽明学を学び、大塩平八郎の乱に参加、江戸で病死した義民西村七右衛門

  3. 戦後では数々の名勝負で多くのファンの喝采を浴び、その戦法から「攻めの高島」と称された棋士、高島一岐代がいる

なかでも弓削道鏡は聖武天皇の娘孝謙(称徳)天皇に仕え、天皇から大僧正の信任を得、法王にまでのぼりつめ、天皇に代わって政事(まつりごと)を司り、西大寺などを建立、弓削の地に都「西の京」を誘致しようとした実力者であった。

残念なことは彼には「女帝を拐かし、自らが天皇になろうとした悪僧!」という悪名が常につきまとうことだ。

これは長年、弓削道鏡に冠せられた歴史上すでに固定化されてしまった感がある。

だが事実はどうなのか。本当に彼は悪僧であったのか。それをつきとめてみたい、と筆を取った次第である。

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地元八尾市での評価

資料を集めていて、あることに気づいた。

どうにもこの河内では意識の上で道鏡の存在を無視しているところがあるようなのだ。

道鏡に関する書籍の数ほど、お膝元である八尾で道鏡に関する話を耳にすることがないのは不思議な話だ。

先日軍隊経験のある老人から、軍隊で弓削出身であることを理由に上官から、不敬だと殴られたというひどい話を聞いた。

藤原氏の息のかかった歴史書で、狡猾にも天皇の座を狙ったとんでもない僧とされてしまったことがどうやら道鏡の不幸の震源地のような気がする。さらにその記事が後世の「水鏡」や卑猥な物語にもみられるように、女帝との男女の関係からあげくの果てには巨根説へと歪曲され、道鏡をさらに世俗的にも面白おかしい色事師のごとくにし、陳腐な者にしてしまったようである。

河内の八尾と言えば映画「悪名」や「こつまなんきん」に代表される今東光の描いた任侠肌の朝吉親分が全国的には有名だ。(こつまなんきんとは機知に優れ、すばしっこく、おてんばで男勝りの、ちいさな南京のように可愛い河内娘を表現する親称である)

さらにその後に加えるならば河内音頭と、今なら子供服のミキハウスとなるのだろうか。間違っても道鏡の名前は出ない。それほどにも地元民からは黙殺されている。いくら事実が悪僧であったとしてもこれは嘆かわしいことである。

ご当地の八尾に道鏡の生誕地だという立て札が見あたらないのは、さきほどの軍隊での例にもあるように、人々がそうした道鏡の世俗的な評価を恥とまではいわないが、道鏡の生誕地であること自体にどこか恥ずかしいような、負い目のようなものがあるのではないかと勘ぐってしまうほど、小市民にとってはイメージが好ましくないのである。実際、洋の東西を問わずエロやグロほど健全な小市民(プチブル)の軽蔑と反感をかうものは他にはないが・・・・・。

稀代優秀なインテリであった道鏡

ただ誤解のないように断っておくが、奈良時代の僧はおしなべてインテリであった。文字も知らない人がほとんどの世の中で、たくさんの仏典を精読し、建築技術、浚渫土木に長け、宇宙の節理やさまざまな仏法の教理を学び、医術を探求する智者は僧以外にはいなかった。

巧妙に婚姻関係を結ぶことで政治を握っていた藤原一族の世襲官僚などとはその知的レベルにおいて比べるに及ばない。

当時僧を目指すということは、言葉を換えれば人間にある全ての欲を絶つことであった。色欲、物欲、権力欲など、相当な覚悟とそれに打ち勝つ強靭な精神力がいったのである。生半可な人間にはとうてい真似の出来ないことであった。

語学にも道鏡は卓抜としたものがあった。留学僧でもない道鏡が兄弟子良弁に付き添って唐招提寺の鑑真を訪れ、二人の会話が理解できたという。このことは驚嘆にあたいする。

道鏡はさらに難解なサンスクリット語にも精通していたことは誰もが認めるところである。辞書も教科書もましてやテープもない時代に異国語を習得することの困難さは想像に絶する。相当の頭脳の持ち主であったのだ。

政治的に利用された死後の道鏡

称徳天皇の没後、下野薬師寺に幽玄された道鏡は藤原氏をはじめとする、天皇の威光を背景に政治的まとまりを狙う歴代の為政者にとって、その天皇をないがしろにした不敬の存在として格好の標的となった。

為政者は飢饉や疫病などで民衆の社会不安がつのり、もはや自らの力では収束できなくなる度に民衆の心の深層に眠る弓削道鏡像を揺り起こし、盛んに悪事を喧伝することで、その反目としての天皇の権威や霊力を担ぎ上げ、その名を周知することで乱世を鎮めようとした。

日本の三大悪人

戦前の皇国史観で三代悪人と言えば、後醍醐天皇に逆らった足利尊氏、東国で親皇を名乗った平将門と称徳天皇を呪術で拐かした道鏡というのが常識になっていた。

江戸時代は逸物の大きさから性豪の代名詞として笑いものになっていた道鏡がさらに悪者となったのは昭和に入ってからである。

戦前の日本は天皇を現人神と奉り、「天皇は神聖にしておかすべからざる」存在として君任し、国体を守った和気清麻呂や楠正成は忠臣とされ、その神聖である天皇の座を狙った道鏡はとんでもない悪僧であると喧伝した。

当時の小学校の歴史の時間に「日本の悪人を記せ」という問いがあり、答えに道鏡と書くと二重丸であったという。このように道鏡ほど長い間に渡って為政者によって都合良く利用された人物もまた希である。

ところで、隣接各市の図書館で道鏡について色々調べているうちに一冊の本と出くわした。「道鏡の生涯」と題する自費出版本で、著者は古田清幹とある。

略歴を読むと古田氏は学者でもなんでもない。昭和46年に亡くなられるまで慶応大学(日吉)で学生食堂を経営しておられたという。弓削や河内出身でもない古田氏がどういう経過で道鏡に興味を持ち、研究を始められたのかは詳しく判らない。

彼の足跡からわかっていることは道鏡顕正会なる研究会を一人で創設し、世間でいう道鏡の汚名を懸命に打ち消そうとした人であったということである。八尾市立図書館にも蔵書されているこの本は古田氏の後に続き、道鏡の間違った評価を正そうとする「道鏡を守る会」によって復刊されたものである。

道鏡顕正会 古田清幹

古田氏は亡くなられる2年前、「弓削道鏡について」という掲示板を道鏡の墓所(道鏡塚)のある栃木県河内郡河内町字薬師寺の龍興寺境内に建てた。道鏡の名誉回復を念じ、その証の為に学究に励んだ彼の熱意が短いが落ち着いた文からも伝わってくるので原文掲載することにした。

弓削道鏡について

今を去る千二百年前、仏教の興隆をはかった僧弓削道鏡の墓所が当所です。

道鏡は若くして仏教の学問と修行に志し、積年の間、刻苦精進し、深く宗義に達した立派な人物で、太政大臣禅師となった方です。

しかるに時の上層社会に権力を振う者の陰謀と圧政により自己の聖職を奪われ、ついにここ下野薬師寺の別当職に移されました。

道鏡は都を遠く離れたこの霊場に於いて、西紀七七二年四月七日不遇の生涯を閉じました。

我々は歴史の真実性を尊重する立場から、従来の正史なるものが冶者中心であり、決してありのままのものでなかったことを遺憾に思います。     道鏡顕正会 古田清幹

道鏡は河内国若江郡曙川東弓削生まれ

出生にはいろんな説があるのを承知で道鏡は奈良時代、河内国若江郡曙川東弓削に生まれた、とする。

称徳天皇の由義宮の跡地には現在由義神社が建っている。

往時の弓削の地は大和川が二つに分かれる二俣から北、三角州の中にあり(今の東弓削から八尾木あたり)、往古から難波津に着いた大陸からの旅人が都のあった大和へと向かう、その街道筋にあって、当時の人が大陸文化を肌で感じることができるメインストリートに面していた。

もともとこの地は物部氏などが栄えた地であり、そうした豪族や名家たちがたくさん住んでいた。こうした土地柄が白鳳から天平、奈良時代にかけて、弓削周辺の郷から優れた僧侶の輩出する要因になったことは否定できまい。

道鏡の出生には天智天皇系の皇統であるする説と、弓削の物部大連説がある。

他にも弓削神社の神官の子であったとする説もあったりするがどれも確証はない。しかしながらこのことは天皇になる資格があるかどうか大切なことなのである。皇位継承者は必ず皇統でなければならないという不文律があったからである。

若い頃より仏法に目覚めた道鏡は霊場葛城山(修験道の祖である役の行者小角が修業の場とした所)で修練修行をした。呪術を巧みに操るといわれるのはこのころの修業のせいだ。厳しい生活の中で、加持祈祷の他にも人助けとしての医術に並々ならぬ関心を寄せていた道鏡は山に群生するさまざまな薬草を採取、研究をした。

道鏡の生きた奈良時代の高僧といえばまず義淵(ぎえん)であり、道鏡もまた彼の弟子であった。道鏡は彼から法相宗を学んだ。他にも彼に学んだ僧は玄肪、行基、良弁など、そうそうたるメンバーであった。

玄肪は超インテリで博学の留学僧だし、行基は社会事業家としても有名で、のちに彼は天皇に請われて大仏建立にも携わった。また良弁は東大寺初代管長になった名僧である。