大仏さんの製造

尼崎の河童さんにいただきました


整地

大仏さんの製造

 六世紀なかばに、仏教が日本に伝わりだんだんと定着いった、当時の天平時代は決して穏やかな時代ではなく、天変地異があいついで起こり、日照り、台風、地震、飢饉、また九州に発生した天然痘は、都にも広がり多数の犠牲者が出ました。また都にも地方にも盗賊がはびこり、人の心を迷わせ、天平12年には、九州大宰府で藤原博嗣が反乱を起こして、政状不安の状態が続きました。聖武天皇は、乱を戒め、国を守り、世の中を正しく導くには、仏の教えにすがるのがなによりと考えました。「民のすべてに、み仏を拝ませよう。そうすれば、日本の国も栄え、みんなの心も安らかになるだろう」こうして、仏教を広めるための詔が諸国に出されました。聖武天皇は知識寺の虚舎那仏の尊い姿に深く心をひかれ「宇宙をあまねく照らす仏ならできるだけ大きい仏が望ましい。唐の国にある大仏には負けたくない。日本の後世までも国の鎮めとなる、銅像の立派な大仏を作り上げてみせる」と天平15年に大仏建立の詔を下しました。

大仏の設計

 日本で、このような大きい大仏を制作する試みはなにぶんにも初めてのことでもあり、仏師の戸惑いがありました。そんなときに「大変良い方法があります」と国君麻呂が名乗り出ました。君麻呂は祖父の時代に戦いを避けて、百済から日本に渡来した一族の一人であった、祖父や父から大きな銅像の作り方について教わっていたのではないか、君麻呂に限らずこの時代には、技術力にたけていた大陸からの渡来人が、広く日本の社会に活躍していました。君麻呂は早速、心をこめて大仏の姿を描きました。それはおそらく聖武天皇が理想として求めていた姿だったのでしょう。丸みをおび、張りきった頬に、くっきりと抑揚のある目鼻立ち、肉体はあくまでも豊かで写実性にとみ、毅然とした中にも天平の仏らしい明るさのただよう像だったのではないでしょうか。君麻呂は、その姿に沿って、何枚もの設計図をひき、つぎにその雛型(模型)を造りました。このご、君麻呂は彫刻の総監督として大仏作りの中心となり、技術の指導にあたったとされています。

銅鐸 銅予の製作

 

 金銅仏はまず鋳型という型をこしらえ、銅を熱して溶かし、これを鋳型に流し込んでかためるという方法をとります。銅矛は、図に示すように惣型(まね型)の原理で石製の鋳型を使ってこしらえたものです。
 銅鐸は外鋳型(雌型)とそれより一まわり、銅の厚みになるぶんだけ小さくした中型(雄型)をつくり、それぞれの銅のあたる面だけを乾燥させて療法の型を合わせ、できた空間に溶かした銅を流しこんで作ります。古い時代の銅鐸は石の鋳型を使いましたが、後期の銅鐸は、土で鋳型を作ったのです。

 銅鐸作りの詳細を図に示します。

整地

 
 大仏を作るには、広い敷地がとれて、しかも、足場用の土が豊富に場所でなければなりません。そこで丘の傾斜地の土を削って、その土で谷間を埋めて平らな敷地を造成し、あわせて、足場の土も調達できるように、この斜面になっている土地を選びました。聖武天皇の「山を削って仏殿を構えよう」という詔ありました。

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