創 建
柴籬神社の創建は第24代仁賢天皇【兄 履中天皇の孫】の命により創建された。
治世年
当宮は大津道【長尾街道】と丹比道(竹内街道)の間、ほぼ中央に位置し大和政権の第18代反正天皇の宮跡で古事記によれば壬申の年【432年】から丁の丑(437)まで治世したとある。
記,紀
古事記、日本書紀によるとその治世は平穏にして穀物は豊作続きで、人民は富み賑い平和な時代であったとされ,又瑞〔水〕歯別命とあるように歯が瑞々しく立派であると記されている。
倭の五王
【讃,珍,済,興,武】の一人、珍にあたるとされており、その力はすこぶる大きく遠くは中国にまで名が轟かせていた。
偲 跡
当時をしのぶものとして、宮にゆかりあると思われる、極殿山、大門、中門、学門宮、反山、東宮、堂経、中橋,高見などの字地を残している。これらの地域大阪府教育委員会は、丹比柴籬宮跡の埋蔵文化財包蔵地として指定している。
記 録
第五十六代清和天皇の貞観6年(864)宝弊給わる観応2年(1351)北朝の足利直義祈願参詣する戦国時代河内国守護畠山氏が神社保護する旧幕時代、京都御所より菊花紋章幕給わる。
市名由来
大和時代天皇が変わるごとに、都を移すのが常であった。反正天皇の弟の允恭天皇が位につき大和の飛鳥に最初に都を移す。このため丹比柴籬宮は歴史の舞台から離れて後、その宮跡が「松生いし、丹比の松原」とよばれ、それが市名「松原」となる。
近つ飛鳥
遠つ飛鳥
大阪府南河内郡河南町東山299番地に平成6年3月25日安藤忠雄氏設計の大阪府近つ飛鳥博物館がある。その展示室入口の壁面に「近つ飛鳥、遠つ飛鳥」の由来が記されてる。その由来の詳細について述べることにします。
皇位継承
仁徳天皇崩御後、皇位継承は兄弟相承型となるこれには有資格者の皇子が二人以上の場合誰が天皇になるか法的根拠がなかったために、争奪が起ったりすることを防ぐためということが考えられる。その後の記、紀によると皇族内部での闘争記事が多いのは各氏族の命運に影響を与える問題でもあった。以上のようなことがらにより事件は下記の過程となる。
履中天皇
兄履中天皇は大嘗祭のとき大御酒に浮かれて、難波の宮で熟睡されていた。
救  助
そのときに弟の墨江の中王が(天皇を殺そうと、難波の宮に火を放つ)
宮炎上
天皇は阿知の直にたすけられ波邇賦坂「羽曳野市野々上」で目覚め、難波の宮遠望なされた時に宮が燃えているのを見る。
石上神宮
大坂の山の入り口「羽曳野市飛鳥」に到着されたときに一人の女人に出会うその女人曰く「多くの兵が武器を持つて大坂山を塞いでいる。大和へは竹内峠越「北葛城郡当麻町竹内」えをするのが良いでしょう」と教えられ天皇は無事に石上神宮「奈良県天理市布留町」におはいりになる。
拝謁拒否
そこえ弟の瑞歯別の命が兄に拝謁を申し入れるが、兄は臣下を通して仰せられるには「私はあなた様には墨江の中王と同志であるまいと疑っている。だから語り合うわけにはいかない」と伝える
「私はきたなき心なし、同志でわありません」
「それならば、難波に下りて墨江の中王を殺して上り来ませ」
「その時には、私はお前に会って語り合おう」
智  策
瑞歯別命は難波に引き返して、墨江の中王に仕える側近の隼人の曾婆加里に曰く
「お前の主人を殺せ」
「もし言に従うならそのときにはお前を大臣にしよう」
そこで曾婆加里は自分の主君が厠(便所)に入られたのを伺って矛で刺し殺す。
忠  義
「曾婆加里、お前は私の為には大きな功あれども,現に自分の主人を殺すのは物のどおりにあらず」「しかしその功に報いぬは誠意がない」そこで多くの官人の前で大臣の位を授け、大坂の山口(羽曳野市飛鳥)で酒宴を盛大に催す。そこでそこを号けて難波より近いので【近つ飛鳥】という。
斬  殺
曾婆加里喜んで顔を隠すほどの大きな盃で酒を飲んでいたときに、命は薦の下に隠していた剣で曾婆加里の首を斬り殺す。
大和上り
その後大和(奈良県高市郡明日香村)に到着して「今日はここに留まり、禊斎し明日天皇に拝謁しよう」そこでそこを号けて難波より遠いので【遠つ飛鳥】という。
後  記
以上の過程で【近つ飛鳥】【遠つ飛鳥】といわれ古代では智策を用いて敵を欺き直接手を下さずに単純粗暴な野心家であることを見抜き、それを利用したわけで倒した者が英雄視される時代である。このような例としては倭建命にもみられ、こうして皇位継承の足場を固めたのである。
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