1994年・第15回アメリカ大会総括


ベストイレブン
ポジション 国籍 名前
GK ミシェル・プロドーム
Michel Preud'homme
DF ジョルジーニョ
Jorginho
DF マルシオ・サントス
Marcio Santos
DF パオロ・マルディーニ
Paolo Maldini
MF ドゥンガ
Dunga
MF クラシミール・バラコフ
Krassimir Balakov
MF トーマス・ブローリン
Tomas Brolin
MF ゲオルゲ・ハジ
Gheorghe Hagi
FW ロベルト・バッジォ
Roberto Baggio
FW ロマーリオ
Romario
FW フリスト・ストイチコフ
Hrist Stoitchkov

MVP ロマーリオ
Romario
得点王 フリスト・ストイチコフ
Hrist Stoitchkov
オレグ・サレンコ
Oleg Salenko

得点者ランクトップ5
6ゴール フリスト・ストイチコフ
オレグ・サレンコ
5ゴール ロマーリオ
ロベルト・バッジォ
ケネット・アンデション
ユルゲン・クリンスマン

優勝国成績
国名 試合数 対戦成績
7試合 6勝0敗1分け
得点11失点3
 第15回ワールドカップは、スポーツ大国アメリカでの開催となった。サッカー未開の地と言われたアメリカは、プロリーグの発足を条件にワールドカップの開催に漕ぎつける。ワールドカップ開催に向けては、アメリカンフットボウルの競技場などが臨時でサッカースタジアムに衣替え。レギュレーションで既定されている天然芝のフィールドは、六角形のウェハーを組み合わせて完成させた。ワールドカップ史上、初めて室内競技場で試合が行われたのである。アメリカ代表は、早くからユーゴスラビア人のミルティノビッチ監督を招聘して、チームの強化に余念が無い。ドイツ人のトーマス・ドゥーリーに帰化を要請して、経験と集中力が求められる守備リーダーに任命した。マスコミの注目と期待を集めたのは、フットボウルのドラフトにも使命があったゴールーキーパーのトニー・メオラ。人懐っこい性格で、チームのムードメーカーを務める。大会直前には、ペレと共に来日して日本のテレビ番組にも出演。ワールドカップのPRを行なっていた。サッカーに無関心な国民をどのように惹き付けるか、ミルティノビッチ監督の導き出した答えは、個性的な選手ばかりを揃えて、異色のチームを結成することだった。アレクシー・ララスやマルセロ・バルボアなど、プレースタイル以上に趣味や人間性にスポットが当てられる。ラスベガスでの抽選会も豪華なゲストで盛大に盛り上げ、エンターテイメントの持つ華やかさで、ワールドカップへの注目度は日に日に増して行った。

 アメリカが初戦を戦うシルバードームには、7万人を超える大観衆が押し寄せて、グループ最大の難関スイスとの試合に援護を行なう。前半39分に、ブレギーのフリーキックが決まってスイスが先制。やはり力の差は埋まらなかったかと沈みかけたその直後、同じ角度のフリーキックをウィナルダが決めて1−1の同点で折り返す。勢いに乗ったアメリカは、スイスと一進一退の攻防を繰り広げ、そのまま引き分けることに成功する。同日には、ダークホースとして注目されていたコロンビアが、“東欧のマラドーナ”ハジのルーマニアと対戦。こちらも、戦前の予想を覆す内容でルーマニアが勝利した。コロンビアは南米予選でアルゼンチンを5−0と退けており、ペレにしてワールドカップの主役に成れるチームと評価されていた。黒豹アスプリージャも得点王候補に挙げら、ルーマニアを相手に派手なパフォーマンスが期待されていたが、反対にゾーンサッカーで攻撃のリズムを狂わされ、それが尾を引いてしまう。アメリカとの試合でも、ちぐはぐなプレーで自滅した。クロスボールをクリアーしようとしたエスコバルは、ブロックしようと伸ばした足に当ったボールが、ゴールキーパー・コルドバの反応した逆方向に転がり、不運にもオウンゴールを決めてしまう。さらに、スチュワートに追加点を奪わrたコロンビアは、調子付いたアメリカに一方的な展開で試合を支配される。終盤にバレンシア、バレンシアーノを投入して反撃に出たが、1点を返すに止まった。労せず勝利を挙げたアメリカは、グループリーグ通過に王手。2連敗に終わったコロンビアは、ほぼグループリーグ敗退が決定。最終戦でスイスを倒して1勝を挙げたものの、帰国便の予定が変更されることは無かった。しかし、本当の不幸は、帰国した後に待ち受けていた。レストランで口論したエスコバルが銃で撃たれ、そのまま帰らぬ人となる。名物ゴールキーパーで知られる怪人イギーターは、人攫いの身代金受け渡し役に名乗りを挙げて、共犯の疑いで逮捕されていた。

 最終戦でルーマニアと対戦することになったアメリカは、独立記念日の7月4日に試合を行なうため、敢えてルーマニアとの試合に敗れる。国民が団結しやすい記念日を選ぶ辺りは、いかにも策士ミルティノビッチらしい選択だった。最も厄介な日に、アメリカと戦うことになった国は、ロマーリオを要する優勝候補筆頭のブラジル。ブラジルも、大会直前の5月1日に、F1レーサーで同国の英雄アイルトン・セナを不慮の事故で失っており、その弔いとばかりに一致団結でワールドカップ制覇に乗り込んでいた。南米予選ではボリビアに敗れるなどして、国民から不甲斐ないと扱き下ろされていたが、本大会が開幕してからは常に安定感のあるパフォーマンスを披露。優勝候補の名に相応しいレベルを誇示していた。そのブラジルを敵に回して尚、アメリカは高らかに勝利宣言を行なう。ブラジルを倒して、サッカーの新しい独立記念日にする。そう意気込む代表チームに、世界中の関心が集まった。ブラジルが負けてしまうのではないか、そんなムードが漂う中で始まった試合は、左サイドバックのレオナルドが報復行為で退場となり、ブラジルがひとり少ない状況に追い込まれる。それでも、地力に勝るブラジルが、圧倒的な手数でアメリカゴールに押し寄せてきた。強力なツートップ、ロマーリオとベベットは、ドゥーリーとララスがマンマークで食い止める。ピンチ次ぐピンチの場面を迎えたが、体を張ったスーパープレーで持ち堪えた。しかし、後半72分、マークを掻い潜ったベベットのシュートが、ララスのつま先の数センチ先を通過して、アメリカゴールのサイドネットに突き刺さった。試合に敗れたアメリカだったが、ブラジルを相手に見応えのある好ゲームを演じて、開催国としての役割を全うした。

 90イタリア・ワールドカップに続いて、大会で旋風を巻き起こしたのは東欧勢だった。円熟の域に差しかかったゲオルゲ・ハジが、巧みな足技で観衆を魅了する。ペレが優勝候補に挙げていたコロンビアとの試合では、4人の選手に囲まれながら、ハジは40m地点からロングシュートを放ち、試合の流れをたった一手で引き寄せる。ゴールを守るコルドバが気の毒になったのは、その10分後のことだった。左サイドにポジションを取ったハジは、再び強烈なロングシュートでゴールを狙う。ボールはコルドバの頭上を通過して、そこから角度を落としながら、ゴール右隅サイドネットの1番難しいところに収まった。あまりの離れ業に、それまで脇役と目されていたルーマニアが、その瞬間から主役の座を奪ってしまう。コロンビアは、バレンシアの突進で1点を奪い返したが、後半終了間際に3失点目を喫して敗れ去った。ルーマニアの攻撃は、前線に残るハジとラドチョウのふたりだけで展開されており、鉄壁のディフェンスから素早く前線に送るカウンタースタイル。たったふたりの選手をコロンビアのDFは4人掛かりでマークしても、信じられないほど慌てふためき、実にあっさりと抜かれていた。もはや、第2戦を待たずして、コロンビアの敗退が濃厚となる内容だった。この試合で勢いを掴んだかに見えたルーマニアも、続くスイス戦では1−4の大敗を喫してしまう。ハジが1点を返しているが、気分屋と指摘される彼等の気質が顕著に現われていた。

 ルーマニアが大躍進を遂げたのは、決勝トーナメント1回戦の対アルゼンチン戦。マラドーナのドーピングが発覚したため、アルゼンチンはチームの中核を失っていた。変わりに、パサレラの秘蔵っ子と言われるアリエル・オルテガが、スターティングイレブンに名を連ねる。しかし、パスの中継地点として機能していたマラドーナの代役を勤めるまでには至らず、オルテガは孤軍奮闘のドリブル突破で勝負を試みた。しかし、ゾーンディフェンスを使うルーマニアにとって、オルテガのドリブルは格好の的でしかなかった。ルーマニアは、ハジとドミトレスクが絶妙のハーモニーを奏でて、個人技の魅力を存分に楽しませる。ハジのパスを受けたドミトレスクが、角度の無い位置からミドルシュートを叩き込んで、まずは1点。バティステュータのPKで追いつかれた直後にも、ハジのフリーキックに再びドミトレスクが合わせて追加点を奪い取る。攻撃的に仕掛ける両国は、互いにチャンスを作り上げていた。後半に折り返すと、ルーマニアはやや守備的に構えて、カウンタースタイルを展開する。その術中にはまったアルゼンチンは、ハジとドミトレスクのコンビに翻弄されてしまう。前線でパスを受けたドミトレスクの背後をセリメシが掛け抜け、DFが釣られたところで、逆サイドをオーバーラップしてきたハジにパス。フリーとなったハジは、強烈なシュートでルーマニアに3点目をもたらした。2点のリードを付けられたアルゼンチンは、アルゼンチンリーグの得点王メディナベージョを投入して、最後の総攻撃を開始する。バルボのゴールで1点差に詰め寄ったが、あと1歩及ばずルーマニアの前に屈した。思わぬ快進撃を続ける代表チームに、ルーマニアの専門記者は滞在費用が底を尽きてしまい、準々決勝の会場へ向うことが出来なくなっていた。

 ブラジルの対抗馬として注目を集めていたヨーロッパの3カ国は、いずれもチームの選手起用で揺れていた。オランダは、大会直前の4月にヨハン・クライフが代表監督に就任。世界中のファンをどよめかせたが、チーム強化の方針を話し合った際、サッカー協会と対立して、そのまま辞任を表明する。それに意を共にしたのが、クライフを崇拝して止まないルート・フリットだった。クライフとフリットを失い、スケールダウンを余儀なくされたオランダだったが、それでもタレントの宝庫を感じさせる選手が続々と現われていた。快速を誇るロイとオフェルマルスは、大会屈指のドリブラーとして素晴らしい働きを見せる。タレントの数では前回のチームを上回っていたものの、直前のお家騒動があっただけに、チームの完成度には疑問符が付いていた。そこに、サウジアラビア戦での苦戦が伴ない、マスコミの評価は今一つパッとしなかった。カルチョの国イタリアも、セリエAの隆盛によって、才能ある選手が多く台頭し始めていた。イタリアの至宝ロベルト・バッジォに貴公子シニョーリ、魅惑の左足ゾラと、誰が本大会のエースとして起用されるか議論が尽きなかった。指揮官のアリゴ・サッキは、誘惑に狩られてロベルト・バッジォとシニョーリの共存を試みたが、これが最後の最後までサッキのビジョンを狂わせることになる。ポジションを変え、選手を変えて、どうにか遣り繰りしていた末、調子の上がらないイタリアは、アイルランドに敗れて批難を浴びてしまう。大会途中でバレージとバッジォも負傷を負ってしまい、満身創痍の状態に追い込まれた。90イタリア・ワールドカップの覇者となった西ドイツは、その年の暮に東ドイツと併合されてから、初めて統一ドイツとして出場する。旧東ドイツから唯一人代表チームに選ばれたのは、破壊力のあるキックを武器とするバスラー。開幕戦のボリビアとの試合に途中出場したバスラーは、その片鱗を垣間見せるプレーで評価を高めたが、2日後、彼に言い渡されたのは3試合出場停止の厳罰だった。スタンドから野次を浴びせられた際、中指を立てて、有名なセリフを吐いてしまった。ドイツの問題は、エゴイストばかりが権力を掴んでしまったことである。マテウスの後継者として、周囲から期待を寄せられていたメラーも4年間に進歩が見られず。大会直前になると、代表引退を表明していたクリンスマンを呼び寄せる。ドイツは、完全に世代交代に失敗していた。

 アメリカを退けて準々決勝に進んだブラジルは、74年以来の対戦となるオランダとの試合に臨む。ドイツ、イタリアが自滅する一方で、唯一ブラジルと渡り合える力を残していたのがオランダだった。しかし、灼熱の太陽が照りつけるダラスでの試合は、オランダにとって不利な環境である。試合は、ブラジルの主導権で進み、オランダが耐える展開。攻撃と守備の要であるライカールトも動きが重く、ブラジルが先制点を挙げた時点で試合は終わるかに思われた。後半53分にロマーリオがゴールを奪うと、10分後にもベベットがオフサイドトラップを掻い潜って追加点。改正されたばかりのオフサイド新ルールまでが、オランダの足を引っ張った。ゴールを奪ったベベットは、2日前に生まれたばかりの次女に向けて、揺り篭ダンスを披露した。そこにロマーリオとマジーニョが加わり、これがオランダの闘争心に火を付けてしまう。それからわずか1分後、“殺し屋・アイスマン”と称されるベルカンプが反撃弾を叩き込み、奇声を上げてチームを鼓舞する。さらに、ベルカンプの突破からコーナーキックをもぎ取ると、そのコーナーからビンターがヘディングシュートでゴール。たちまちにして、2−2の同点に追い付いた。しかし、それも束の間、ブランコのフリーキックが壁の間に入ったロマーリオの腰元を抜けて、オランダゴールに吸い込まれた。機械的で冷めていると批判されたオランダだったが、ブラジルを相手に見せた闘争心は熱かった。オランダを倒したブラジルは、続くスウェーデンも横綱相撲で寄り切ると、決勝戦の会場で悠々とイタリアを待ち受ける。その頃、ニューヨークで戦うイタリアは、ルーマニアと並ぶ東欧の雄ブルガリアを相手に、ロベルト・バッジォが2ゴールを決めて完全復活を感じさせた。しかし、ニューヨークからロサンゼルスへの移動に、バレージは膝を手術。移動する必要の無いブラジルの選手たちが、ディズニーランドやラスベガスで遊んでいたのとは対照的だった。
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