| 1994年・第15回アメリカ大会総括 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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第15回ワールドカップは、スポーツ大国アメリカでの開催となった。サッカー未開の地と言われたアメリカは、プロリーグの発足を条件にワールドカップの開催に漕ぎつける。ワールドカップ開催に向けては、アメリカンフットボウルの競技場などが臨時でサッカースタジアムに衣替え。レギュレーションで既定されている天然芝のフィールドは、六角形のウェハーを組み合わせて完成させた。ワールドカップ史上、初めて室内競技場で試合が行われたのである。アメリカ代表は、早くからユーゴスラビア人のミルティノビッチ監督を招聘して、チームの強化に余念が無い。ドイツ人のトーマス・ドゥーリーに帰化を要請して、経験と集中力が求められる守備リーダーに任命した。マスコミの注目と期待を集めたのは、フットボウルのドラフトにも使命があったゴールーキーパーのトニー・メオラ。人懐っこい性格で、チームのムードメーカーを務める。大会直前には、ペレと共に来日して日本のテレビ番組にも出演。ワールドカップのPRを行なっていた。サッカーに無関心な国民をどのように惹き付けるか、ミルティノビッチ監督の導き出した答えは、個性的な選手ばかりを揃えて、異色のチームを結成することだった。アレクシー・ララスやマルセロ・バルボアなど、プレースタイル以上に趣味や人間性にスポットが当てられる。ラスベガスでの抽選会も豪華なゲストで盛大に盛り上げ、エンターテイメントの持つ華やかさで、ワールドカップへの注目度は日に日に増して行った。 アメリカが初戦を戦うシルバードームには、7万人を超える大観衆が押し寄せて、グループ最大の難関スイスとの試合に援護を行なう。前半39分に、ブレギーのフリーキックが決まってスイスが先制。やはり力の差は埋まらなかったかと沈みかけたその直後、同じ角度のフリーキックをウィナルダが決めて1−1の同点で折り返す。勢いに乗ったアメリカは、スイスと一進一退の攻防を繰り広げ、そのまま引き分けることに成功する。同日には、ダークホースとして注目されていたコロンビアが、“東欧のマラドーナ”ハジのルーマニアと対戦。こちらも、戦前の予想を覆す内容でルーマニアが勝利した。コロンビアは南米予選でアルゼンチンを5−0と退けており、ペレにしてワールドカップの主役に成れるチームと評価されていた。黒豹アスプリージャも得点王候補に挙げら、ルーマニアを相手に派手なパフォーマンスが期待されていたが、反対にゾーンサッカーで攻撃のリズムを狂わされ、それが尾を引いてしまう。アメリカとの試合でも、ちぐはぐなプレーで自滅した。クロスボールをクリアーしようとしたエスコバルは、ブロックしようと伸ばした足に当ったボールが、ゴールキーパー・コルドバの反応した逆方向に転がり、不運にもオウンゴールを決めてしまう。さらに、スチュワートに追加点を奪わrたコロンビアは、調子付いたアメリカに一方的な展開で試合を支配される。終盤にバレンシア、バレンシアーノを投入して反撃に出たが、1点を返すに止まった。労せず勝利を挙げたアメリカは、グループリーグ通過に王手。2連敗に終わったコロンビアは、ほぼグループリーグ敗退が決定。最終戦でスイスを倒して1勝を挙げたものの、帰国便の予定が変更されることは無かった。しかし、本当の不幸は、帰国した後に待ち受けていた。レストランで口論したエスコバルが銃で撃たれ、そのまま帰らぬ人となる。名物ゴールキーパーで知られる怪人イギーターは、人攫いの身代金受け渡し役に名乗りを挙げて、共犯の疑いで逮捕されていた。 最終戦でルーマニアと対戦することになったアメリカは、独立記念日の7月4日に試合を行なうため、敢えてルーマニアとの試合に敗れる。国民が団結しやすい記念日を選ぶ辺りは、いかにも策士ミルティノビッチらしい選択だった。最も厄介な日に、アメリカと戦うことになった国は、ロマーリオを要する優勝候補筆頭のブラジル。ブラジルも、大会直前の5月1日に、F1レーサーで同国の英雄アイルトン・セナを不慮の事故で失っており、その弔いとばかりに一致団結でワールドカップ制覇に乗り込んでいた。南米予選ではボリビアに敗れるなどして、国民から不甲斐ないと扱き下ろされていたが、本大会が開幕してからは常に安定感のあるパフォーマンスを披露。優勝候補の名に相応しいレベルを誇示していた。そのブラジルを敵に回して尚、アメリカは高らかに勝利宣言を行なう。ブラジルを倒して、サッカーの新しい独立記念日にする。そう意気込む代表チームに、世界中の関心が集まった。ブラジルが負けてしまうのではないか、そんなムードが漂う中で始まった試合は、左サイドバックのレオナルドが報復行為で退場となり、ブラジルがひとり少ない状況に追い込まれる。それでも、地力に勝るブラジルが、圧倒的な手数でアメリカゴールに押し寄せてきた。強力なツートップ、ロマーリオとベベットは、ドゥーリーとララスがマンマークで食い止める。ピンチ次ぐピンチの場面を迎えたが、体を張ったスーパープレーで持ち堪えた。しかし、後半72分、マークを掻い潜ったベベットのシュートが、ララスのつま先の数センチ先を通過して、アメリカゴールのサイドネットに突き刺さった。試合に敗れたアメリカだったが、ブラジルを相手に見応えのある好ゲームを演じて、開催国としての役割を全うした。 90イタリア・ワールドカップに続いて、大会で旋風を巻き起こしたのは東欧勢だった。円熟の域に差しかかったゲオルゲ・ハジが、巧みな足技で観衆を魅了する。ペレが優勝候補に挙げていたコロンビアとの試合では、4人の選手に囲まれながら、ハジは40m地点からロングシュートを放ち、試合の流れをたった一手で引き寄せる。ゴールを守るコルドバが気の毒になったのは、その10分後のことだった。左サイドにポジションを取ったハジは、再び強烈なロングシュートでゴールを狙う。ボールはコルドバの頭上を通過して、そこから角度を落としながら、ゴール右隅サイドネットの1番難しいところに収まった。あまりの離れ業に、それまで脇役と目されていたルーマニアが、その瞬間から主役の座を奪ってしまう。コロンビアは、バレンシアの突進で1点を奪い返したが、後半終了間際に3失点目を喫して敗れ去った。ルーマニアの攻撃は、前線に残るハジとラドチョウのふたりだけで展開されており、鉄壁のディフェンスから素早く前線に送るカウンタースタイル。たったふたりの選手をコロンビアのDFは4人掛かりでマークしても、信じられないほど慌てふためき、実にあっさりと抜かれていた。もはや、第2戦を待たずして、コロンビアの敗退が濃厚となる内容だった。この試合で勢いを掴んだかに見えたルーマニアも、続くスイス戦では1−4の大敗を喫してしまう。ハジが1点を返しているが、気分屋と指摘される彼等の気質が顕著に現われていた。 ルーマニアが大躍進を遂げたのは、決勝トーナメント1回戦の対アルゼンチン戦。マラドーナのドーピングが発覚したため、アルゼンチンはチームの中核を失っていた。変わりに、パサレラの秘蔵っ子と言われるアリエル・オルテガが、スターティングイレブンに名を連ねる。しかし、パスの中継地点として機能していたマラドーナの代役を勤めるまでには至らず、オルテガは孤軍奮闘のドリブル突破で勝負を試みた。しかし、ゾーンディフェンスを使うルーマニアにとって、オルテガのドリブルは格好の的でしかなかった。ルーマニアは、ハジとドミトレスクが絶妙のハーモニーを奏でて、個人技の魅力を存分に楽しませる。ハジのパスを受けたドミトレスクが、角度の無い位置からミドルシュートを叩き込んで、まずは1点。バティステュータのPKで追いつかれた直後にも、ハジのフリーキックに再びドミトレスクが合わせて追加点を奪い取る。攻撃的に仕掛ける両国は、互いにチャンスを作り上げていた。後半に折り返すと、ルーマニアはやや守備的に構えて、カウンタースタイルを展開する。その術中にはまったアルゼンチンは、ハジとドミトレスクのコンビに翻弄されてしまう。前線でパスを受けたドミトレスクの背後をセリメシが掛け抜け、DFが釣られたところで、逆サイドをオーバーラップしてきたハジにパス。フリーとなったハジは、強烈なシュートでルーマニアに3点目をもたらした。2点のリードを付けられたアルゼンチンは、アルゼンチンリーグの得点王メディナベージョを投入して、最後の総攻撃を開始する。バルボのゴールで1点差に詰め寄ったが、あと1歩及ばずルーマニアの前に屈した。思わぬ快進撃を続ける代表チームに、ルーマニアの専門記者は滞在費用が底を尽きてしまい、準々決勝の会場へ向うことが出来なくなっていた。 ブラジルの対抗馬として注目を集めていたヨーロッパの3カ国は、いずれもチームの選手起用で揺れていた。オランダは、大会直前の4月にヨハン・クライフが代表監督に就任。世界中のファンをどよめかせたが、チーム強化の方針を話し合った際、サッカー協会と対立して、そのまま辞任を表明する。それに意を共にしたのが、クライフを崇拝して止まないルート・フリットだった。クライフとフリットを失い、スケールダウンを余儀なくされたオランダだったが、それでもタレントの宝庫を感じさせる選手が続々と現われていた。快速を誇るロイとオフェルマルスは、大会屈指のドリブラーとして素晴らしい働きを見せる。タレントの数では前回のチームを上回っていたものの、直前のお家騒動があっただけに、チームの完成度には疑問符が付いていた。そこに、サウジアラビア戦での苦戦が伴ない、マスコミの評価は今一つパッとしなかった。カルチョの国イタリアも、セリエAの隆盛によって、才能ある選手が多く台頭し始めていた。イタリアの至宝ロベルト・バッジォに貴公子シニョーリ、魅惑の左足ゾラと、誰が本大会のエースとして起用されるか議論が尽きなかった。指揮官のアリゴ・サッキは、誘惑に狩られてロベルト・バッジォとシニョーリの共存を試みたが、これが最後の最後までサッキのビジョンを狂わせることになる。ポジションを変え、選手を変えて、どうにか遣り繰りしていた末、調子の上がらないイタリアは、アイルランドに敗れて批難を浴びてしまう。大会途中でバレージとバッジォも負傷を負ってしまい、満身創痍の状態に追い込まれた。90イタリア・ワールドカップの覇者となった西ドイツは、その年の暮に東ドイツと併合されてから、初めて統一ドイツとして出場する。旧東ドイツから唯一人代表チームに選ばれたのは、破壊力のあるキックを武器とするバスラー。開幕戦のボリビアとの試合に途中出場したバスラーは、その片鱗を垣間見せるプレーで評価を高めたが、2日後、彼に言い渡されたのは3試合出場停止の厳罰だった。スタンドから野次を浴びせられた際、中指を立てて、有名なセリフを吐いてしまった。ドイツの問題は、エゴイストばかりが権力を掴んでしまったことである。マテウスの後継者として、周囲から期待を寄せられていたメラーも4年間に進歩が見られず。大会直前になると、代表引退を表明していたクリンスマンを呼び寄せる。ドイツは、完全に世代交代に失敗していた。 アメリカを退けて準々決勝に進んだブラジルは、74年以来の対戦となるオランダとの試合に臨む。ドイツ、イタリアが自滅する一方で、唯一ブラジルと渡り合える力を残していたのがオランダだった。しかし、灼熱の太陽が照りつけるダラスでの試合は、オランダにとって不利な環境である。試合は、ブラジルの主導権で進み、オランダが耐える展開。攻撃と守備の要であるライカールトも動きが重く、ブラジルが先制点を挙げた時点で試合は終わるかに思われた。後半53分にロマーリオがゴールを奪うと、10分後にもベベットがオフサイドトラップを掻い潜って追加点。改正されたばかりのオフサイド新ルールまでが、オランダの足を引っ張った。ゴールを奪ったベベットは、2日前に生まれたばかりの次女に向けて、揺り篭ダンスを披露した。そこにロマーリオとマジーニョが加わり、これがオランダの闘争心に火を付けてしまう。それからわずか1分後、“殺し屋・アイスマン”と称されるベルカンプが反撃弾を叩き込み、奇声を上げてチームを鼓舞する。さらに、ベルカンプの突破からコーナーキックをもぎ取ると、そのコーナーからビンターがヘディングシュートでゴール。たちまちにして、2−2の同点に追い付いた。しかし、それも束の間、ブランコのフリーキックが壁の間に入ったロマーリオの腰元を抜けて、オランダゴールに吸い込まれた。機械的で冷めていると批判されたオランダだったが、ブラジルを相手に見せた闘争心は熱かった。オランダを倒したブラジルは、続くスウェーデンも横綱相撲で寄り切ると、決勝戦の会場で悠々とイタリアを待ち受ける。その頃、ニューヨークで戦うイタリアは、ルーマニアと並ぶ東欧の雄ブルガリアを相手に、ロベルト・バッジォが2ゴールを決めて完全復活を感じさせた。しかし、ニューヨークからロサンゼルスへの移動に、バレージは膝を手術。移動する必要の無いブラジルの選手たちが、ディズニーランドやラスベガスで遊んでいたのとは対照的だった。 |
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