1986年・第13回メキシコ大会総括


ベストイレブン
ポジション 国籍 名前
GK ハラルド・シューマッハー
Harald Schumacher
DF オスカル・ルジェリ
Oscar Ruggeri
DF アンドレアス・ブレーメ
Andreas Brehme
DF マニュエル・アモロ
Manuel Amoros
MF ヤン・クーレマンス
Jan Ceulemans
MF ビンチェンツォ・シーフォ
Vincenzo Scifo
MF ミッシェル・プラティニ
Michel Platini
FW ディエゴ・マラドーナ
Diego Armando Maradona
FW カレッカ
Careca
FW エミリオ・ブトラゲーニョ
Emilio Butragueno
FW ゲイリー・リネカー
Garry Lineker

MVP ディエゴ・マラドーナ
Diego Armando Maradona
得点王 ゲイリー・リネカー
Garry Lineker

得点者ランクトップ5
6ゴール ゲイリー・リネカー
5ゴール ディエゴ・マラドーナ
エミリオ・ブトラゲーニョ
4ゴール ホルヘ・バルダーノ
ヤン・クーレマンス
エルケアー・ラールセン
ソ連 イゴール・ベラノフ

優勝国成績
国名 試合数 対戦成績
7試合 6勝0敗1分け
得点14失点5
 1986年のワールドカップは、当初コロンビアでの開催を予定していたが、治安の悪さと国内情勢の悪化から、各国は代表チームの派遣に懸念を示した。それを受けて、急遽、開催地をメキシコに変更することとなる。1970年に継いで2度目の開催となるメキシコだが、そこはFIFAの実力者アベランジェの知るところ。その権力を行使して、ワールドカップのテレビ放映権管理をスイスの代理店ILSに委託することで、莫大な利益を貪っていた。すべての試合はヨーロッパのテレビ視聴時間に合わせたため、メキシコ現地時間の真昼間に行われた。赤道直下の灼熱の太陽と、高低差の激しい地形条件がネックとなり、大半の試合が場面展開のスピードに欠ける凡戦に終わった。地元メキシコに、南米の雄アルゼンチンとブラジルは、標高の高いメキシコシティとグアダラハラを中心に試合を行ない、西ドイツ、ソビエト、フランス、イングランドは標高の低い地域での試合を余儀なくされる。メキシコシティやグアダラハラは、標高が高い分だけ湿度・気温が低く快適に過ごせるが、問題はケレタロやレオンなどの標高の低い中部地域で、真夏にもなると40度を越える高温地獄と化す。その地獄に送り込まれたのは、優勝候補筆頭のフランスと西ドイツだった。誇り高きプラティニがこの仕打ちを忘れることは無く、ドイツのベッケンバウアーと結束して、現役引退後はFIFA会長の椅子を狙い始める。唯一、標高差のハンデから免れた前回優勝国イタリアだったが、そのイタリアのグループにはアルゼンチンが飛び込み、メキシコシティでの抽選会に激震が走った。こうして、FIFA会長アベランジェの思惑を臭わせる“死のロード”が完成したのである。

 圧倒的不利に立たされたヨーロッパの列強は、共に決勝トーナメントでの会場移動を睨んで、グループリーグの試合をスローペースで戦わなければならない。フランスは初出場のカナダに、西ドイツは格下のスコットランドに苦しみ、スタートから躓いてしまう。死のグループに組み込まれた西ドイツの消耗は激しく、主力選手数名を体調不良で欠き、ベストイレブンが出場することは1度として無かった。悲惨だったのは地元メキシコとの準々決勝で、中3日で海抜500mのケレタロから海抜2300mのメキシコシティへと移動した直後の対戦となる。軽度の高山病に見舞れた西ドイツの選手たちは動きが鈍く、その中でひとり気を吐いたのがゴールキーパーのシューマッハーだった。試合は引いて守る西ドイツをメキシコが一方的に攻め続けたが、決定的なチャンスはことごとくシューマッハーのスーパーセービングが跳ね返した。延長戦でも勝負の決着は付かず、0−0のままPK戦に突入する。ここでもシューマッハーが、2人目と3人目のキックを連続ブロックして、メキシコのシナリオにバッドエンディングを書き添えた。延長戦を戦い疲労困憊となった西ドイツは、フランスとの準決勝戦でも防戦一方の試合展開を余儀なくされ、体を張った守りでフランスのシュートを跳ね返し続けるばかり。その戦い方をプラティニが猛烈に批判した。

 最も最悪なグループに組み込まれたフランスは、優勝候補として過度の期待を背負ったことも裏目となる。攻撃が噛み合わないまま、カナダとの試合を終了間際のパパンのゴールで、辛くも1−0で乗り切った。しかし、不甲斐ない出来と周囲の評価も悪く、カナダの善戦を称える声だけが付きまとう。続くソビエト戦でも、ラッツの強烈なミドルシュートを浴びてしまい、1−1で引き分けたがフランスの印象は薄かった。ハンガリーとの初戦を6−0で大勝したソビエトは、特失点差のリードをキープしたまま、最終カナダ戦にも勝利を治める。一方のフランスは、ハンガリー戦からようやくエンジンが掛かってきたが、ソビエトに逃げ切りを許してしまい、グループを2位で通過することとなった。決勝トーナメント進出を果たしたものの、優勝の2文字はもはや風前の灯火と化す。順当に勝ち進んでも、1回戦イタリア、準々決勝戦ブラジル、準決勝戦西ドイツ、決勝戦アルゼンチンを倒さなければならない。サッカー界のBIG4と呼ばれる4カ国すべてと戦う上、1回戦のイタリアとはメキシコシティで戦うハンデも付いていた。当時のイタリア代表は、インターミラノの選手を中心に結成されていたが、キャプテンを務めていたセンターバックのシレアは、プラティニのチームメイトでユベントスの選手。インテルの鉄人ベルゴミに、世界最高のセンターバック・シレアが指揮を取るカテナチオは連携不足で、マラドーナとの対戦からペースを乱されていた。その隙を突いたプラティニは、カテナチオの中央でワンツーパスを繰り返して、鮮やかに先制ゴールを奪い取った。

 南米の中でも、自由奔放な攻撃でカーニバルと謳われたブラジルは、黄金の中盤に陰りが訪れる。世界レベルの司令塔ジーコが、前年のリーグ最終戦で左膝を負傷して戦線離脱。変わりに指揮を任されたファルカンは、チームの歯車と噛み合わず、自らスランプに陥ってしまう。更には、規律を重んじるテレ・サンターナ監督が、ナイトクラブに出掛けていたレナトとレアンドロを外してしまい、著しく戦力ダウン。黄金の中盤で唯一生残ったソクラテスがキャプテンを務め、チームの攻撃を引っ張ったが、4年前の華やかさは失われたままだった。スペインとの試合をソクラテスのヘディングシュートで1−0。結果だけを見れば無難に勝利を治めているが、試合内容の伴なわない結果だけに、サポーターは戸惑いを隠し切れない。国内では、早くもレナトを招集しなかったことが指摘され、4年前の思い出がリピートされる。続くアルジェリア戦も、カレッカのゴールで連勝に導くが、オフサイド臭いゴールに周囲の反応は冷たかった。早々とグループ突破を果たしたブラジルは、第3戦で傷の癒えないジーコをテスト。新戦力の右サイドバック・ジョジマールも加え、攻撃に拍車が掛かる。しかし、カレッカとコンビを組んだミューレルの出来は悪く、決定力不足との批判は止まなかった。4年前のチームが素晴らしかっただけに、今回のチームには自然と厳しい目が向けられていた。

 決勝トーナメントに勝ち進んだブラジルは、ジョジマールの活躍によって、ようやくベストの布陣を見出して行く。モンテレーから移動してきたポーランドを4−0と圧倒。ようやく、ブラジルらしさが戻ったと手放しの評価を集める。そして、イタリアを倒して勝ち進んだ強豪フランスとの対戦に挑む。4年前の両国ならば、ハイレベルな選手が多数名を連ねており、その実力は拮抗していた。しかし、ブラジルの戦力ダウンと、レオンでの戦いに苦しんだフランスの状態が悪く、夢のカードと言われた対決はスローペースで立ち上がる。ゴールキーパーへのバックパスルールが、まだ改善されておらず、DFラインでのボールを扱いも多い。超攻撃的と称えられた両国の戦いは、鍔迫り合いの形相を呈した。最初にゴールを挙げたのはブラジルのエース・カレッカ。中央からダイレクトパスを繋いで、最後はフリーでボールを受けたカレッカが落着いて、ゴール隅にシュートを突き刺した。負けじとフランスも、前半終了間際にプラティニが同点ゴールを叩き込む。中央でパスを叩いたプラティニは、一直線にサイドへ旋回してフィニッシュ。試合は1−1のまま、両国のゴールキーパーがファインセーブを披露して、一進一退の攻防を繰り広げる。ハイライトは、ミューレルが倒された場面でのPK。キッカーには、そのミューレルに変わって登場したジーコが選ばれた。調子が上向かないジーコに得点を挙げさせ、チームに活気を取り戻そうとしたが、その狙いはもろくも崩れ去る。ジーコの放ったシュートは、バツの脇腹辺りに飛んでしまい、簡単に弾かれてしまった。その後、両国共に追加点が奪えないまま、試合はPK戦に。このPK戦では、ブラジルのソクラテスとフランスのプラティニが外して、劇的なシナリオにドラマが付け加えられた。

 FIFAの勢力図が浮き掘りとなった中、主役に登り詰めたのは、各国の記者が最も注目するディエゴ・マラドーナのアルゼンチンだった。1982スペイン・ワールドカップで不遇の時を過ごしたマラドーナは、肉体を筋肉の鎧に作り変えて現われた。反則覚悟のファウルにも屈しず、脅威的な突進力でアルゼンチンの攻撃を先導する。コンビを組んだバルダーノとの意思疎通も抜群で、チーム14得点中のすべてのゴールに2人が絡んでいた。韓国との初戦では、実力を見せることなく秒殺。日本を倒して出場を決めた韓国だけに、その注目度は高かったが、アルゼンチンと戦うレベルではなかった。続いて、第2試合では、4年前に大きな借りがある宿敵イタリアとの対戦。しかし、開始早々にアルトベリーのクロスをハンドに取られてしまい、不可解なPKで失点を喫する。その後、守りに入ったイタリアだったが、マラドーナの意表をつくプレーで同点に追い付いた。第1試合でイタリアが引き分けていたため、アルゼンチンは勝ち急ぐことなく、最終戦での勝負に順位争いを持ち込む。そして、ヨーロッパでも弱小国の部類に入るブルガリアを2−0で一蹴した。アルゼンチンに次いで2位となったイタリアは、決勝トーナメント1回戦でフランスに敗れて姿を消すことに。一方のアルゼンチンも、南米の古豪ウルグアイのラフプレーに苦しんだが、マラドーナとバルダーノが囮となり、裏から抜け出したパスクリが決めて、南米2位対決に終止符を打つ。このウルグアイ戦は、アルゼンチンが戦った試合の中で唯一、アステカスタジアムを離れたものだった。

 勢いを見せつけるアルゼンチンは、準々決勝戦でサッカーの母国イングランドを迎え撃つ。グループリーグから苦戦の続いたイングランドは、リネカーがエースとして覚醒しつつあった。直前のポーランド戦とパラグアイ戦で5ゴールを挙げ、得点ランキングのトップに立つ。ここに来てイングランドは、リネカーの得点パターンを作るため、元チームメイトで相性の良いスティーブンを起用していた。しかし、アルゼンチンとの試合では、守り重視の試合を展開して、マラドーナとバルダーノの攻撃を受けてしまう。3人4人の選手がマラドーナの前に立ちはだかったが、それでも食い止めるだけで精一杯。辛うじて、前半を無失点に押さえていた。しかし、後半の立ち上がり、遂にマラドーナが先制ゴールを決める。空中でシルトンと競り合ったマラドーナは、左腕でイングランドゴールにボールを飛ばしたが、審判はハンドを取らないでゴールを認める。これに動揺したイングランドは、守備から攻撃へと前のめりに仕掛けたが、反対にマラドーナが5人の選手をかわして、止めのゴールを突き刺した。ゴッドハンドと5人抜き、衝撃的な5分間の出来事によって、マラドーナは生きる伝説と化した。イングランドは、終盤にバーンズを投入して反撃を試みたが、この交代はあまりにも遅過ぎる英断だった。

 マラドーナの活躍で、一気に波に乗ったアルゼンチンは、ベルギーとの準決勝でも圧倒的な力の差を見せつける。バルダーノ、ブルチャガとのコンビネーションで、マラドーナは2試合連続の2ゴール。たちまちにして、得点王争いにまで名乗りを挙げた。アルゼンチンの前では成す術無く敗れたベルギーだが、ソビエト、スペインを破り、前評判を覆す意外な活躍を見せる。クーレマンス、シーフォを中心に、激しい点取り合戦を演じた好チームだった。決勝戦に勝ち進んだアルゼンチンは、満身創痍の西ドイツとアステカスタジアムで激突。西ドイツは、得点王を狙うマラドーナのショータイムに付合わされたが、マラドーナにだけはゴールを許さなかった。ブラウン、バルダーノのゴールで2点差を付けられてからは、攻撃に転じて同点に追い付いている。ポジション毎に仕事のできるタレントを揃えており、ベストの布陣さえ組むことが出来たなら、優勝していてもおかしくはなかった。大会MVPに選ばれたマラドーナは、4人5人のDFの壁をまったくものともしない突進は迫力満点で、地元メキシコの大観衆を魅了した。マラドーナの登場がサッカー界の異端とされるのも、組織守備の理念を根底から覆す、攻撃の駆け引きがあったからだろう。これまでの戦術進化の歴史を嘲笑うかのように、マラドーナは心理戦に超越していた。そのマラドーナを活かすためのマラドーナ・システムで、アルゼンチンはメキシコ大会の優勝を勝ち取ったのである。

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