| 1978年・第11回アルゼンチン大会 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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1930年の第1回ウルグアイ大会で決勝戦に勝ち進んでからは、アルゼンチンの成績はあまり振るわなかった。ルイス・モンティやアルフレッド・ディ・ステファノ、オマール・シボリなど、チームの中核を担うスター選手が、ヨーロッパのビッグクラブに引き抜かれたため、なかなかワールドカップにベストチームを送り込むことが出来なかった。 アルゼンチンに転機が訪れたのは、1976年3月に起きた軍事クーデターである。当時のアルゼンチンは、政策のまずさからハイパーインフレに陥り、混乱した市民生活が続く中でテロ活動による略奪が続いていた。そんな中、ホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍は陸軍を率いて、イザベル・ベロン大統領を追放する。ビデラ将軍は、新たに軍事政権を確立したが、市民からの反対は強く、反対運動を抑圧するために次々と思想活動家を連行した。政府に拉致された行方不明者の数は、およそ2万人とも3万人とも言われている。その多くは、サッカー・スタジアムで銃殺されたり、睡眠薬を飲まされ海に投げ捨てられたり、残酷な殺戮の末に行方不明扱いされているのである。ワールドカップの開催については、前政権時に決定したことだが、ビデラ大統領はこれを政府のPRとして利用した。 ワールドカップ開催に付いては、各国から反発する声もあがっていたが、得に強い反発を示したのはオランダのスーパースター、ヨハン・クライフだった。29歳のクライフは、すでに代表チームから引退する胸を明かしていたが、チームがヨーロッパ地域予選で苦しみ、プレーオフでアイルランドとの対戦が決まったことから、急遽代表に合流している。クライフの活躍もあって、アイルランドを倒したオランダは本大会出場に漕ぎ付けたが、復活クライフのコメントを拾おうと集まったマスコミの前で、クライフはアルゼンチンでのワールドカップに出場しないことを告げる。衝撃的なインタビューは世界中を駆け巡り、アルゼンチンの現状が明るみになり始めた。オランダ国内は、本大会出場をボイコットするかで議論が渦巻いたが、結局はサッカー協会の意向で大会に出場している。そのオランダが、クライフを失いながらも決勝戦に勝ち進んだのは興味深い。 軍事政府の全面バックアップの下、“赤はな”ルイス・セサル・メノッティ監督は代表チーム作りに取り組んだ。メノッティは、25歳とまだ若いながらも規律を重んじるダニエル・パサレラをキャプテンに任命して、チームの統制を図ることに重点を置いた。アルゼンチンの選手は気質が荒く、すぐにエキサイトして激しいファウルに走ることが多かった。選手交代が認められていない時代こそ、相手チームの選手を負傷させて有利に立つことが出来たが、次第にファウル判定が厳しくなると、アルゼンチンは自滅するばかりだった。精神的に逞しくする意味でも、ラフプレーの矯正からメノッティ監督は取り組んだのである。 パサレラが精神的なチームのリーダーであるなら、戦術的にリーダーとなったのはオズワルド・アルディレスだった。ゲームメーカーとして優れたパスセンスを誇っていたアルディレスは、中盤の軸としてメノッティから重要視された。大会直前まで、不世出の天才と言われたディエゴ・マラドーナのテストを試みたが、まだ精神的に幼さの残るマラドーナに対して、メノッティは不安を隠しきれずにいた。軍事政権下でのプレッシャー、それと地元開催のプレッシャーで、マラドーナに重圧が掛かることを恐れたようだ。結局、マラドーナは大会1ヶ月前に、他の2名と共に代表落ちが宣告されている。マラドーナのワールドカップ・デビューは、4年後のスペイン・ワールドカップに持ち越されることとなった。 アルゼンチンは、予選からイタリアとフランスの強豪国と対戦することになった。12年振りの出場となったフランスには、若き21歳の将軍ミッシェル・プラティニが頭角を現し、パスワークを重点にした新しいスタイルが確立されつつあった。アルゼンチンとの試合で、ワールドカップ初ゴールを決めたプラティニだったが、結果はパサレラとルーケのゴールでアルゼンチンが勝利した。2連勝を飾ったアルゼンチンは、最終戦で“ゴッドファーザー”ベアルツォット監督率いるイタリアと対戦する。イタリアは、ロッシやベッテガが好調に有り、序盤から勝負強さを見せていた。すでに、両チームとも1次リーグの通過が決まっていたこともあり、アルゼンチンはペースを抑えて2次リーグの戦いを見据えた試合運びを行なう。イタリアのベッテガがゴールを決めて、試合は1−0でイタリアの勝利に終わった。 グループを2位で通過したアルゼンチンは、2次リーグでブラジルやペルーの南米勢と首位を争う。ここで、予期しておくべきであった、悪しからぬ事件が起きてしまう。全てのチームが2試合を終えた時点で、1勝1引き分けのブラジルとアルゼンチンは、得点1の差でわずかにブラジルがリード。最終戦で、ポーランドを相手に3得点を追加したブラジルを抜くためには、アルゼンチンはペルーを4点差以上の大差で倒さなければならなかった。ここで問題となったのは、ブラジルとポーランドの試合が終了した時点から、アルゼンチンとペルーの試合が行われたことである。案の定、ペルーは攻める気配を感じさせず、アルゼンチンに一方的に攻め込まれて、大量6得点を献上する。当然、ブラジルは怒りが治まらなかった。すぐに大会実行委員会へ抗議したが、軍事政権の支配下ではすべてが無駄に終わった。 決勝戦に勝ち進んだアルゼンチンの前に、前回準優勝のオランダが待ち構えていた。大会前から、アルゼンチンの軍事体制に批判の意を表していたオランダは、行方不明者を弔う喪章を腕に撒き、全面対決の姿勢で乗り込んでいた。これに対して、嫌がらせによる妨害が行われ、宿泊ホテルの電話が深夜まで鳴り止まない状況にあった。万全のコンディションで試合に望むことが許されなかったオランダに、さらに追い討ちをかける出来事が起こる。先に、スタジアムに姿を現したオランダの選手は、ウォーミングアップをしながら、アルゼンチンの選手が到着するのを待っていた。しかし、アルゼンチンの選手は一向に姿を見せず、オランダの選手に苛立ちが出始める。あからさまに揺さぶりを掛けながら、ようやくアルゼンチンの選手が到着したのは、予定されていた決勝戦開始時間から、1時間以上も遅れてのことだった。名物の紙ふぶきがリバープレート・スタジアムの上空に舞い、いよいよキックオフ。闘志を剥き出したオランダは、地元アルゼンチンを相手に攻撃の手を緩めなかった。審判のジャッジは、当然の事ながらアルゼンチンを有利に導いて行く。四面楚歌の状況でケンペスに先取点を奪われながらも、試合終了間際に意地のゴールで追いついた。しかし、延長戦でケンペスにゴールを奪われ、打倒アルゼンチンを果たすことはできなかった。ビデラ大統領ら、政府の幹部が見守る中、キャプテンのパサレラがジュール・リメ杯を受け取る。虐殺が行われていたことも忘れ去り、リバープレート・スタジアムとその周辺には、母国の初優勝を祝う人々の歓喜の声が響き渡った。 暗黒の側面を秘めたワールドカップだが、注目すべきは新しいスターの台頭である。ブラジルのジーコを筆頭に、西ドイツのルンメニゲ、フランスのプラティニ、イタリアのロッシは、将来性を感じさせるプレーで、その名をワールドカップの歴史に刻み付けると共に、鮮烈なデビューを飾っている。1980年代のワールドカップは、この4人の戦いによって更に白熱したエンターテイメントに進化した。 |
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