1966年・第8回イングランド大会


ベストイレブン
ポジション 国籍 名前
GK ゴードン・バンクス
Gardon Banks
DF マルティネス・サンチェス
Jose Martinez Sanchez
DF マティアス・シュルツ
Matthias Scherz
DF ボビー・ムーア
Bobby Moore
DF マルソリーニ
MF フランツ・ベッケンバウアー
Franz Beckebauer
MF ボビー・チャールトン
Bobby Charlton
MF コルーナ
Coluna
FW オネガ
FW エウゼビオ
Eusebio Ferreira Da Silva
FW マス

MVP ボビー・ムーア
Bobby Moore
得点王 エウゼビオ
Eusebio Ferreira Da Silva

得点者ランクトップ5
9ゴール エウゼビオ
6ゴール ハーラー
4ゴール ハースト
ベッケンバウアー
ベネ
ソ連 パルクヤン

優勝国成績
国名 試合数 対戦成績
6試合 5勝0敗1分け
得点11失点3
 イングランド・サッカー協会100周年を記念して、サッカーの祭典ワールドカップは母国イングランドへと誘われた。イングランドは、マンチェスター・ユナイテッドの“マグニフィセント・セヴン(偉大なる7番)”ボビー・チャールトンを始め、ボビー・ムーアやノビー・スタイルズなど、優れた選手を輩出しつつあった。アルフ・ラムゼイ監督は、名手ゴードン・バンクスを中心に、ボビー・ムーアをボランチに配して、4−3−3のシステムを編み出している。攻撃一辺倒のチーム作りから脱却して、守備的な布陣でチームを安定させることに専念した。しかし、このやり方には賛否両論が渦巻き、大会直前にこのチームの優勝を予想した者はあまり居なかった。

 優勝候補の本命に挙げられたのは、ジャンニ・リベラとアレ・サンドロ・マッツォーラを擁したイタリアだった。1963年にACミランの本拠地サンシーロ・スタジアムで行われた親善試合で、ワールドカップ連覇を果たしたブラジルを一方的に攻め立て、3−0の圧勝を飾っていたのである。ペレやガリンシャなどの強力なアタッカーを完封し、カテナチオ・ディフェンスの磐石を見せつけた。しかし、本大会を前にしたイタリアは、守備と攻撃のバランスが保てず、チームが瓦解しつつあった。類稀なる才能を備えた“超頭脳”リベラを活かすには、攻撃的布陣が望ましい。決断に踏み切れないままに本大会へ臨んだイタリアは、最悪な結末を迎えることになる。

 イタリアの要請で、初戦の相手はチリに決定した。前回チリ大会での借りを返すべく、審判のジャッジはイタリアを有利に導いた。前半開始早々にマッツォーラのゴールでリードを奪ったイタリアは、後半終了間際にも1点を加えて、チリを退ける。イタリアとチリによる泥沼の報復合戦は、この後も続き、1998年のフランス大会にまで及んでしまう。チリを倒したことによって、意気を上げるかに思われたイタリアだったが、攻撃的布陣で臨んだことに多くの選手が反旗を翻した。ペラーニ、バリソンのツートップが試合をボイコット。それに同調する形で、こともあろうにリベラまでもが、ソビエト連邦戦を辞退した。チームの得点源を失ったイタリアは、“黒クモ”ヤシンに完封されてしまう。

 窮地に追い込まれたイタリアにとって、歴史上最大の汚点とも言える屈辱が待ち受けていた。1次リーグ最終戦で、アジアから出場していた北朝鮮に、完封負けを喫したのである。ペラーニとバリソン、リベラを復帰させたイタリアは、序盤から北朝鮮を圧倒するはずだった。しかし、スピードに乗って、アグレッシブに攻撃を仕掛けたのは、北朝鮮の方だった。圧倒されたイタリアは、ブルガレッリが北朝鮮の選手と激突して負傷退場する。10人となったイタリアは、防戦もままならず、遂に前半終了間際に北朝鮮に得点を許してしまった。それも、プロのサッカー選手ではなく、歯科医を営んでいたパク・イドクに見事なループシュートを決められたのだから、シャレにならなかった。この1点を返すことが出来ず、イタリアは1次リーグで姿を消すことになる。帰国した彼らを待ち受けていたのは、群集から投げ付けられる無数の腐ったトマトだった。

 イタリアが自滅した傍らで、王者ブラジルも1次リーグで姿を消していた。ブルガリアをペレとガリンシャのフリーキックで倒したが、ハンガリー戦でペレが痛め付けられて負傷退場すると、勢いを失ったブラジルは2連敗を喫した。試合中は片寄った判定が繰り返され、暴力を野放しにする現状をペレは嘆いていた。それまでのヨーロッパ勢は、比較的クリーンなサッカーをしており、ブラジルやアルゼンチン、ウルグアイほど悪質ではなかった。しかし、チリ大会を境にして、暴力による報復行為が後を絶たなくなってきた。当時のルールでは、試合中の途中交代が認められておらず、負傷退場した場合でも選手を追加することが出来ない。そのルールを逆手に取って、南米勢は選手潰しを繰り返してきたが、ここにきてヨーロッパ勢の反撃を受けたのである。

 優勝候補の筆頭格であるイタリアとブラジルが消えたことにより、イングランドの優勝する可能性が高まってきた。イングランドのグループには、強豪ウルグアイやフランスといった、攻撃能力の高いチームが組み込まれていた。しかし、“イングランド・バンクス(イングランド銀行)”と名付けられたバンクスがスーパーセーブを連発。1点も与えることなく、1次リーグを首位で通過した。準々決勝では、オネガとマスの強力なフォワードを誇るアルゼンチンと対戦。マンマークのスペシャリスト、スタイルズが司令塔ソラリを封印して、この試合もアルゼンチンを完封する。4試合連続完封は、ワールドカップの無失点記録となった。そんなイングランドの鉄壁の守備を崩したのが、“モザンビークの黒豹”エウゼビオだった。ボビー・チャールトンのキャノンシュートで2ゴールをリードしたイングランドだったが、決勝進出が決定的となったその直後に集中力を欠いたのか、エウゼビオにゴールを決められて、無失点記録は430分でピリオドを迎える。

 母国イングランドと帝国西ドイツによる決勝戦は、ロンドンに建設されたウェンブレー・スタジアムで行われた。西ドイツは、司令塔オヴェラーツやウーベ・ゼーラーを中心に、早々たる顔触れを揃えており、ウルグアイやソビエト連邦を破って、その攻撃力を見せつけていた。中でも、一際優雅に振舞うベッケンバウアーの存在は、イングランドのボビー・チャールトンにして、もっとも印象に残る選手と言わしめる。ヘルベルガー監督の後任を受けたヘルムート・シェーン監督は、ベッケンバウアーに特別な才能が備わっていることを見抜いていた。当時のベッケンバウアーは、所属するバイエルン・ミュンヘンで右ウイングバックとして、境地を開拓していたが、攻撃をビルドアップさせる能力に注目したシェーン監督は、ベッケンバウアーをセンター・ボランチとして起用する。そして、ベッケンバウアーは中盤から攻撃をサポートするばかりでなく、ディフェンスの統率も図って、オールラウンダーとしての能力を存分に発揮した。ソビエト連邦との試合では、名手ヤシンの守るゴールへ、20mの弾丸ミドルシュートを突き刺した。攻守に渡って活躍するベッケンバウアーは、イングランドにとっても、このうえなく厄介な存在となる。

 ベッケンバウアーに与えられた任務は、ボビー・チャールトンを押さえることだった。イングランドの決定機を演出するボビー・チャールトンを封じて、得点力の半減を目論んだ。西ドイツは、ベッケンバウアーがドリブルで持ち込み、ハーラーへパスを送ると、堅守を誇るイングランドから先制ゴールを奪うことに成功する。しかし、ウェンブレーの大歓声を受けるイングランドも負けてはいない。すぐにハーストが同点ゴールを叩き込み、試合を振り出しに戻す。ベッケンバウアーがボビー・チャールトンのマークに付いたため、その後は両チーム共に決定機に恵まれない。一進一退の攻防戦となり、次に試合が動いたのは残り時間も10分になろうかという時だった。後半79分、ピータースのゴールで遂に逆転に成功する。しかし、粘りを見せる西ドイツは、終了間際にウェーバーのゴールで追いついた。試合は、決勝戦では史上初めてとなる延長戦にもつれ込む。この延長戦で、決勝点となったハーストのシュートは、クロスバーを叩いて、ゴールライン上にバウンドした。ルール上ではノーゴールだが、審判はゴールの判定で笛を吹く。西ドイツの選手たちは猛抗議したが、結局これは認められず、試合は4−2でイングランドが勝利した。ハーストが決めた疑惑のゴールは、いまだなお議論の対象とされている。試合終了後、ボビー・チャールトンはベッケンバウアーの下へ駆けより、「君にはまだまだ未来がある。必ずワールドカップで優勝を成し遂げることが出きる。」と声を掛けたという。皇帝ベッケンバウアーはこのとき、まだ21歳という若さであった。

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