| 1966年・第8回イングランド大会 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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イングランド・サッカー協会100周年を記念して、サッカーの祭典ワールドカップは母国イングランドへと誘われた。イングランドは、マンチェスター・ユナイテッドの“マグニフィセント・セヴン(偉大なる7番)”ボビー・チャールトンを始め、ボビー・ムーアやノビー・スタイルズなど、優れた選手を輩出しつつあった。アルフ・ラムゼイ監督は、名手ゴードン・バンクスを中心に、ボビー・ムーアをボランチに配して、4−3−3のシステムを編み出している。攻撃一辺倒のチーム作りから脱却して、守備的な布陣でチームを安定させることに専念した。しかし、このやり方には賛否両論が渦巻き、大会直前にこのチームの優勝を予想した者はあまり居なかった。 優勝候補の本命に挙げられたのは、ジャンニ・リベラとアレ・サンドロ・マッツォーラを擁したイタリアだった。1963年にACミランの本拠地サンシーロ・スタジアムで行われた親善試合で、ワールドカップ連覇を果たしたブラジルを一方的に攻め立て、3−0の圧勝を飾っていたのである。ペレやガリンシャなどの強力なアタッカーを完封し、カテナチオ・ディフェンスの磐石を見せつけた。しかし、本大会を前にしたイタリアは、守備と攻撃のバランスが保てず、チームが瓦解しつつあった。類稀なる才能を備えた“超頭脳”リベラを活かすには、攻撃的布陣が望ましい。決断に踏み切れないままに本大会へ臨んだイタリアは、最悪な結末を迎えることになる。 イタリアの要請で、初戦の相手はチリに決定した。前回チリ大会での借りを返すべく、審判のジャッジはイタリアを有利に導いた。前半開始早々にマッツォーラのゴールでリードを奪ったイタリアは、後半終了間際にも1点を加えて、チリを退ける。イタリアとチリによる泥沼の報復合戦は、この後も続き、1998年のフランス大会にまで及んでしまう。チリを倒したことによって、意気を上げるかに思われたイタリアだったが、攻撃的布陣で臨んだことに多くの選手が反旗を翻した。ペラーニ、バリソンのツートップが試合をボイコット。それに同調する形で、こともあろうにリベラまでもが、ソビエト連邦戦を辞退した。チームの得点源を失ったイタリアは、“黒クモ”ヤシンに完封されてしまう。 窮地に追い込まれたイタリアにとって、歴史上最大の汚点とも言える屈辱が待ち受けていた。1次リーグ最終戦で、アジアから出場していた北朝鮮に、完封負けを喫したのである。ペラーニとバリソン、リベラを復帰させたイタリアは、序盤から北朝鮮を圧倒するはずだった。しかし、スピードに乗って、アグレッシブに攻撃を仕掛けたのは、北朝鮮の方だった。圧倒されたイタリアは、ブルガレッリが北朝鮮の選手と激突して負傷退場する。10人となったイタリアは、防戦もままならず、遂に前半終了間際に北朝鮮に得点を許してしまった。それも、プロのサッカー選手ではなく、歯科医を営んでいたパク・イドクに見事なループシュートを決められたのだから、シャレにならなかった。この1点を返すことが出来ず、イタリアは1次リーグで姿を消すことになる。帰国した彼らを待ち受けていたのは、群集から投げ付けられる無数の腐ったトマトだった。 イタリアが自滅した傍らで、王者ブラジルも1次リーグで姿を消していた。ブルガリアをペレとガリンシャのフリーキックで倒したが、ハンガリー戦でペレが痛め付けられて負傷退場すると、勢いを失ったブラジルは2連敗を喫した。試合中は片寄った判定が繰り返され、暴力を野放しにする現状をペレは嘆いていた。それまでのヨーロッパ勢は、比較的クリーンなサッカーをしており、ブラジルやアルゼンチン、ウルグアイほど悪質ではなかった。しかし、チリ大会を境にして、暴力による報復行為が後を絶たなくなってきた。当時のルールでは、試合中の途中交代が認められておらず、負傷退場した場合でも選手を追加することが出来ない。そのルールを逆手に取って、南米勢は選手潰しを繰り返してきたが、ここにきてヨーロッパ勢の反撃を受けたのである。 優勝候補の筆頭格であるイタリアとブラジルが消えたことにより、イングランドの優勝する可能性が高まってきた。イングランドのグループには、強豪ウルグアイやフランスといった、攻撃能力の高いチームが組み込まれていた。しかし、“イングランド・バンクス(イングランド銀行)”と名付けられたバンクスがスーパーセーブを連発。1点も与えることなく、1次リーグを首位で通過した。準々決勝では、オネガとマスの強力なフォワードを誇るアルゼンチンと対戦。マンマークのスペシャリスト、スタイルズが司令塔ソラリを封印して、この試合もアルゼンチンを完封する。4試合連続完封は、ワールドカップの無失点記録となった。そんなイングランドの鉄壁の守備を崩したのが、“モザンビークの黒豹”エウゼビオだった。ボビー・チャールトンのキャノンシュートで2ゴールをリードしたイングランドだったが、決勝進出が決定的となったその直後に集中力を欠いたのか、エウゼビオにゴールを決められて、無失点記録は430分でピリオドを迎える。 母国イングランドと帝国西ドイツによる決勝戦は、ロンドンに建設されたウェンブレー・スタジアムで行われた。西ドイツは、司令塔オヴェラーツやウーベ・ゼーラーを中心に、早々たる顔触れを揃えており、ウルグアイやソビエト連邦を破って、その攻撃力を見せつけていた。中でも、一際優雅に振舞うベッケンバウアーの存在は、イングランドのボビー・チャールトンにして、もっとも印象に残る選手と言わしめる。ヘルベルガー監督の後任を受けたヘルムート・シェーン監督は、ベッケンバウアーに特別な才能が備わっていることを見抜いていた。当時のベッケンバウアーは、所属するバイエルン・ミュンヘンで右ウイングバックとして、境地を開拓していたが、攻撃をビルドアップさせる能力に注目したシェーン監督は、ベッケンバウアーをセンター・ボランチとして起用する。そして、ベッケンバウアーは中盤から攻撃をサポートするばかりでなく、ディフェンスの統率も図って、オールラウンダーとしての能力を存分に発揮した。ソビエト連邦との試合では、名手ヤシンの守るゴールへ、20mの弾丸ミドルシュートを突き刺した。攻守に渡って活躍するベッケンバウアーは、イングランドにとっても、このうえなく厄介な存在となる。 ベッケンバウアーに与えられた任務は、ボビー・チャールトンを押さえることだった。イングランドの決定機を演出するボビー・チャールトンを封じて、得点力の半減を目論んだ。西ドイツは、ベッケンバウアーがドリブルで持ち込み、ハーラーへパスを送ると、堅守を誇るイングランドから先制ゴールを奪うことに成功する。しかし、ウェンブレーの大歓声を受けるイングランドも負けてはいない。すぐにハーストが同点ゴールを叩き込み、試合を振り出しに戻す。ベッケンバウアーがボビー・チャールトンのマークに付いたため、その後は両チーム共に決定機に恵まれない。一進一退の攻防戦となり、次に試合が動いたのは残り時間も10分になろうかという時だった。後半79分、ピータースのゴールで遂に逆転に成功する。しかし、粘りを見せる西ドイツは、終了間際にウェーバーのゴールで追いついた。試合は、決勝戦では史上初めてとなる延長戦にもつれ込む。この延長戦で、決勝点となったハーストのシュートは、クロスバーを叩いて、ゴールライン上にバウンドした。ルール上ではノーゴールだが、審判はゴールの判定で笛を吹く。西ドイツの選手たちは猛抗議したが、結局これは認められず、試合は4−2でイングランドが勝利した。ハーストが決めた疑惑のゴールは、いまだなお議論の対象とされている。試合終了後、ボビー・チャールトンはベッケンバウアーの下へ駆けより、「君にはまだまだ未来がある。必ずワールドカップで優勝を成し遂げることが出きる。」と声を掛けたという。皇帝ベッケンバウアーはこのとき、まだ21歳という若さであった。 |
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